2026/01/17

列車と笛

2026年1月17日

前回のJホールで演奏されたポルカ「観光列車」に関して、今回は鉄の話です。

「観光列車」ではヴァイオリンの田中さんが鉄道会社の制帽(おそらく、駅助役)をかぶり、笛を吹いて鉄道らしさを出していました。演出としては楽しく、突っ込むつもりはないのですが、発車合図で笛を吹くのは電車の、それも古くは国電と言われたカギ括弧付きで「電車」と呼ばれる列車の車掌と、大都市近郊の私鉄(運行形態が「電車」と同じ)の車掌だけなんです。こういう「電車」は、ドアを閉める合図のために笛を吹いていました。ドアが閉まると、私鉄は発車合図のブザーで発車、国鉄はドアが閉まる表示灯を確認して合図無しで発車、でした。このあたりは、今も変わってないですね。

駅員はというと、原則笛は吹きません。駅員が笛を吹くときは、警官と同じで歩行者に注意するときだけです。入れ替えなどでも笛を吹くことはありません。「ポッポや」の中に、入れ替えの時に笛を吹いているという描写がありますが、こういうことはありません。

昔の、機関車がひく列車の出発はどうだったかというと、駅長が右手を高く上げます。長編成になって見えづらくなってからは、出発合図器が使われています。それを見て機関士が「発車」と喚呼してスロットルを開ける、またはノッチを入れます。車掌は異常に備えて非常停止弁に手をかけて見守っています。笛は吹きません。

列車に自動ドアが付いたときはどうなったかというと、例えば気動車急行などでは、駅からの発車合図で(笛は吹かずに)ドアを閉め、ドアが閉まったことを確認してブザーの発車合図、それで発車していました。車掌は列車がホームを離れるまで監視を続けます。車掌が1等車(グリーン車)でドア扱いをするときは、キロ28ではドアの一つを開けっぱなしにしてそこから監視し、ホームを離れる頃そのドアを閉めていました。笛は、吹きません。現在も電車になっても特急列車では、笛は吹きません。

つまり、鉄道と笛が結びつくのは、都市部だけなんです。「出発進行」が「発車」と誤解されてあちこちで誤用されているように、笛についても誤解がたくさんあるみたいです。

2025/11/05

キハ35/45系

2025年11月5日

発売日から少し日が経ちましたが、「鉄道ピクトリアル」の今月号(12月号)は、キハ35/45系の特集でした。またマイナーなものを、と思ったものですが(笑)。

キハ35系もキハ45系も、小生にはなじみがありません。九州でキハ35系が入ったのは門鉄局だけ。キハ45系も熊鉄局に入ったのはキハ23が1両のみで、その1両も全く見かけなかったですね。小生がキハ45系(おそらくキハ23)とキハ35系(おそらくキハ35 500)に乗ったのは、どちらも旅行中でした。どちらも半自動の扉が重く、なかなか開かなかった記憶があります。その鉄道ピクトリアルによると、キハ23が熊本区に入ったのが1989年、1992年に人吉に移動し、翌年にはいなくなっています。見た記憶はないですね。

小生の三角線の記憶は、子供の頃から1960年代までで、キハ17全盛期からキハ58の急行用4両編成(グリーン車付き)が間合い運用で三角線の各停に入っている頃まで。そこからは70年代80年代はぽつりぽつりと断片的で、いきなり90年代のキハ31単行の時代に飛びます。三角線はずっと人吉区の運用だったのですが、これがいつ熊本区になったのか、全くわかっていません。わかっているのは、キハ31は熊本区だった、ということだけですね。

三角線の気動車化の時に人吉区持ちになったのは、その前年に湯前線が気動車化されていて車両を共通運用したかったのと、まだ熊本操車場の開業前で、熊本駅構内が手狭で、熊本機関区にとても気動車まで割り込ませるスペースがなかったこと、が原因でしょう。もちろん、乗務員は熊本区でした。やがて豊肥線も気動車化され、熊本区にも気動車が配備されましたが、これは豊肥線専用で当初は三角線に入ることはなかったです。ところがやがて三角線から豊肥線への直通列車が運転されるようになって三角線にも入るようになり、元々大分のキハ58が急行で乗り入れていたのが間合い運用で各停にも入るようになり、だんだん人吉区持ちが減ってきていました。ただ熊本区は元々キハ55系が主力でそれにキハ52,20。人吉区もキハ17系が引退した後は「くまがわ」格下げのキハ55系がそのまま入ったりして、キハ45系は入らなかったですね。

考えて見れば、1970年代や80年代に三角線の写真は撮っており、貨物列車のC11が当初はDD16に置き換えられて、その後DE10に変わったのは見ていたのですが、気動車の変遷は見ていなかったですね。キハ20系(55系含む)の3連が、気がついたらキハ31の単行に変わっていました。

2025/10/27

高徳線のアンパンマン列車

2025年10月27日


Img_08631a 高徳線にアンパンマン列車が走ることになり、しかもその車両が稀少機種の2600系ということなので、高松まで撮りに行ってきました。

 

高松の駅近くは構内が広く、道路からの撮影が可能です。高徳線は最も南側、つまり道路よりを走りますが、高徳線と道路の間に1本引上げ線があるので、車体にフェンスがかぶることはありません。

 

2600系は先行試作に2両編成2本が造られただけで、量産には至っていません。今回のアンパンマン編成は、2600系が2本ともアンパンマンになるようです。ただまだ登場したのは2602Fだけで、2601Fが登場するのはこれからのようですね。


Img_08471a 今回のアンパンマン編成は、「ばいきんまん」が現れたことが特徴です。高松側はいつもの暖色系のアンパンマンですが、徳島側は寒色系のばいきんまんです。徳島側を先頭車として(後追いではなく)撮ろうとしたのですが、高徳線の特急は毎時10分発のネットダイヤです。ところがマリンライナー岡山行きも、毎時10分40分発のネットダイヤなのです。つまり、高徳線の特急の発車は必ずマリンライナーが同時発車で並ぶんです。同時発車と言っても電車と気動車では加速特性が違い、また毎回ぴったり同時に動き出すわけではありません。しかし、運が悪いと写真のようにもろに後ろに並ばれます。


Img_08901a 結局2日間通いました。2601Fが出たあたりで、また行きます。
Img_09761a

2025/07/29

波多第四橋梁のモーメント

2025年7月29日


Photo_20250729180201 波多第四橋梁のつづきです。
橋にかかるモーメントを、グラフ化してみました。想定は、鉄橋の中央部にC11は第2動輪が、DE10は3軸台車の中央軸が来た場合です。単なる静止モーメントで、動荷重などは一切考慮していません。

 

やはりDE10のモーメントは、橋梁中央部付近で大きいですね。これが応力計算をしてもDE10ではある基準値を超え、再補強が必要になったものと考えられます。

2025/07/23

C11とDE10

2025年7月23日

 

三角線の話題を続けます。
三角線の貨物、それに臨時の旅客列車の牽引は、ずっとC11でした。C11登場前はC10だったそうですが、小生はその頃は生まれていません。そして無煙化されるとき、いきなりDE10ではなく一旦DD16牽引に変わり、波多第四橋梁の補強が完了してDE10に変わりました。この波多第四橋梁は三角線の弱点のようで、元は単純な上路式のプレートガーダーなのですが、C11時代にもすでにターンバックルで補強がしてありました。おそらく、C10入線の時に補強したのでしょう。完成が1899年ですからね。現在の補強は、こちらです。


0027a DE10は物の本には「C11をそのまま置き換えできる」と書いてあります。ところが実際には、橋梁の制限に引っかかってしまっています。どこがどうなのか、興味があったので調べてみました。

 

C11は運転整備重量68.06t(3次型以降)、軸重は13.13t(左記に同じ)です。いっぽうDE10は、運転整備重量65t、軸重13tです。ほぼ同じで、DE10の方がやや軽いですね。一方の波多第四橋梁は、全長10.07m、支間長9.17m。この長さだと、C11もDE10も、全軸は乗りません。1軸がはみ出した状態で橋梁にかかる全荷重は、C11が60.59t、DE10が52t。DE10が圧倒的に少ないです。

 

そうなると残るは橋梁のたわみですが、たわみの計算は大変なので、モーメントを計算しました。両側支持の単純梁として、C11は第2動輪、DE10は3軸台車の中央軸が、それぞれ橋梁の中心に来たときのモーメントです。第1第3動軸のモーメントは橋梁中心の値を出し、3軸を合算しました。正しい計算方法かどうかはわかりませんが、一応の目安にはなるでしょう。

 

結果はC11は(第1動軸から順番に)17.6+30.1+15.7=63.4、DE10は18.8+29.8+18.8=67.4。単位はtmで、GをかけるとKNmになります。ここで差が出ましたね。DE10はC11より軸間距離が短く、3軸とも橋梁中心部に固まった形となり、この結果となりました。

 

なおDD200は軸重14.7tですが2軸しかないのでモーメントには有利で、50.4しかありません。この計算だと、波多第四橋梁はDD200はOKと言うことになります。最も三角線は旧丙線規格で最大軸重は13.5tなので、DD200の入線のためには路盤自体の補強が必要です。

2025/07/21

製紙用原木輸送

2025年7月21日


 


前回に引き続き、三角線の話です。
八代市に日本製紙の工場がありますが、この工場は1924年に九州製紙として設立されました。球磨川の水資源を当てにしたものですが、製紙原料として古紙などは九州で調達できるものの、紙の品質上原木は針葉樹なので、遠く樺太から輸送していました。当時は南樺太は日本領だったので、国内輸送です。そして八代港は遠浅で小型船しか入港できないため、三角港で陸揚げして鉄道で八代まで送っていました。


 


三角には埋め立ての途中のような奥まった入り江があり、そこが十條製紙(当時)の貯木水面になっていました。樺太から三角に運ばれた原木は、おそらくですが、大型船から機帆船に積み替え、潮が満ち潮に変わるタイミングで沖で海に放り込み、満ち潮を利用して貯木水面に引き込んでいました。原木は直径が5cmから15cm位、長さは1m程度の丸太でした。貯木水面は口が絞られて入り江なので、満ち潮で流れ込む海水の流速は速く、途中に引っかからずに貯木水面に流れ込んでいました。とは言ってもやはり引っかかるものがあるので、ある程度潮が満ち、流速が落ち着いたあたりで、ドラム缶筏に乗った作業員が落ちこぼれの丸太を集めて回っていました。なお、貯木水面に至るまでの水路は公共水面で、私の実家も含め、どこの家でも海に降りる階段を持っていました。私の実家は水路がカーブするところで、丸太が引っかかりやすいところだったため、細い丸太が引っかかるとそのまま頂戴し、風呂の燃料になっていました。もう時効でしょう(^_^;。



A 貯木水面には一応堰があって、干潮時でも最低限の水位を保つようになっていました。そこからは巻き上げコンベアで陸揚げされ、三角駅裏に面した貯木場に積まれていました。古い写真を見ると巻き上げコンベアは2基ですが、昭和30年頃は使われていたのは1基だけでした。巻き上げコンベアが道路を越えるあたりと機械室はがっちりしたコンクリート造りで、使われなくなったもう1基の方も残っていました。このコンクリートの建造物は取り壊すのが大変だったようで、廃止されても20年近く残っていました。


 


これらの管理と輸入業務(戦後は樺太はソ連領)のために十條製紙の三角主張所があり、電話は三角の1番でした。電話の自動交換など、まだ先の話です。


 


昭和30年代になると、三角港の岸壁が整備されて大型船が接岸できるようになったせいもあると思いますが、さすがに満ち潮を利用した輸送はなくなり、港から貯木場まで短距離のトラック輸送になりました。これに使われていたのがジャイアント製の3輪トレラートラックで、ナンバーはトラクタが熊6あ0007、トレーラーは3台で8から10までの追い番でした。3台のトレーラーを1台積み込み、1台荷下ろし、1台輸送でうまく回していました。トラクタとトレーラーに連結部は第5輪ではなく単なるフックで、今考えるとトレーラーにはブレーキは付いていません。トラクタの前輪にブレーキが付いていたかも、記憶にありません。当時は3輪のトレーラーは規制が緩く、何でもありだったようです。道が悪く、速度も出せんかったからでしょうね。


 


貯木場からはチキなどに積まれ、三角線の貨物で八代まで送られていました。この時代ですので、トレーラーからの荷下ろしやチキへの積み込みなど、すべて人力です。三角にはこういう仕事をする沖仲仕さんや沖中仕上がりの方が、大勢いました。駅の仕事だけではなく、沖仲仕の元請けや艀の輸送まで、日本通運が一手に引き受け、日通の三角支店にはトラックだけではなく、タグボートや自動車航送船までいました。そのため日通の三角支店は熊本県内でもかなり上位の支店だったようで、山の中腹に立派な支店長用の社宅がありました。


 


このチキは三角線から鹿児島本線の貨物に継走されますが、熊本で継走ししていたのか宇土で継走していたのか、不明です。当時は熊本操車場ができる前で、宇土発着の貨物もかなりあったので、宇土継走だったのかもしれません。


 


やがて八代港が整備されて大型船が入港できるようになり、三角からの原木輸送は終わりを迎えました。昭和40年代後半には八代港に原木を満載した1万トン級のソ連船が出入りしていました。

2025/07/20

三角線の廃糖蜜輸送

2025年7月20日

 

小生は今年の写真展に3点出品しましたが、うち1点は1973年に撮影したモノクロです。まだフィルムカメラの時代で、ネガから取り込んでもらいました。


R3800171a_20250720170001 写真のメインは牽引機のC11190で、現在も大井川鉄道で活躍中のカマです。逆行運転なので九州仕様の炭水庫に開けられた通風口がよくわかり、またお召し仕様の名残の、サイドタンクの白線も見えます。

 

今日の話はそのC11ではなく、後に繋がるタンク車です。いろんなところからかき集められたようで、型式は統一されていません。ただ所有は内外輸送株式会社で、アルコール線用のタンク車です。常備はアルコール工場のあった肥後大津駅、ただ写真では見えませんが、実機には「廃糖蜜仮専用」「三角駅仮常備」との板札がくくりつけられていました。

 

R380006a

肥後大津には、かつて専売のアルコール工場がありました。この専売は大蔵省所管のアルコール専売で、3公社5現業のうち5現業の方に入り、3公社だった専売公社とは異なります。これらのタンク車は三角から肥後大津までアルコール原料の廃糖蜜を輸送するもので、写真は三角に向けた空車回送です。専売の肥後大津工場がいつから稼働し始めたのかは残念ながら資料が見つかりませんでしたが、おそらく戦前、遅くても戦中でしょう。三角からの輸送が本格化したのは昭和30年代で、三角に大きなタンクが建設されたのを覚えています。廃糖蜜は沖縄から三角まで、RKKと書かれた琉球海運の、おそらく499クラスの小型タンカーで輸送されてきました。小型と言っても500tで20t積みタンク車の25台分になりますから、船の輸送力は大きいです。なおこの頃はまだ沖縄の本土復帰前で、三角港では国際貿易扱いです。また琉球海運のRKKは熊本の民放、熊本放送の略称と同じで、なんとなく親近感がありました。

 

廃糖蜜はモラセスとも呼ばれ、廃の字が付いているので産業廃棄物みたいですが、立派な食品です。肥後大津のアルコール工場ではこれを発酵させた後蒸留し、工業用アルコールを製造していました。内外輸送は元々この専売アルコールを輸送するために設立された会社で、原料の廃糖蜜輸送を手がけるのもわかります。

 

肥後大津のアルコール工場は2004年に閉鎖され出水工場に統合されましたが、その前1982年に三角線の貨物輸送は廃止されています。また1987年には豊肥線の貨物輸送も(竜田口までを除き)廃止されていますので、鉄道輸送廃止後どうやって輸送されていたかは不明です。

 

なお現在のアルコール製造は、ほとんどは海外で製造された組成アルコールを生成するだけになっているそうですが、ごく一部、出水工場では未だに廃糖蜜を発酵させてアルコールを製造しているそうです。

 

追記です。廃糖蜜用のタサ3500の写真が見つかったので、追加しました。

2025/06/22

新大阪駅

2025年6月22日

 

昨日大阪から帰ってきましたが、初めて新大阪駅で外に出ました。そのため、新大阪駅での車輪の展示も初めて気がつきました。

 

C57型と9600型の動輪に加え、新幹線0系の車輪(1軸)も展示してあるのは、さすが新大阪です。新幹線は、先頭車21型のものですが、0系は全軸がモーター付きなので、どの車軸も同じですね。細かく言うと、速度計などセンサーの付く軸は軸端処理が異なりますが。


25062101a 0系の車輪径は910mm、標準の860mmより大きいですが、103系のモハも同じ910mmだったので、特に大きいわけではありません。新幹線車両では100系までがこの910mmで、300系から、2階建てのE1,E4系を除き860mmになっています。

 

車輪にブレーキディスクが取り付けられていますが、このやり方は新幹線が最初ではなく、まずアプト式線路対応のキハ57で採用され、その後キハ82系特急気動車で大々的に採用されました。新幹線は、気動車での実績ある方法を採用したものです。

 

余談ですが、今回の大阪での移動のイコカの履歴を見て見たら、面白いことがわかりました。新大阪は「JR新大」ですが、福島はただの「福島」です。長距離の乗車券には「(環)福島」と書かれるのですが、(北)福島たる福島県の福島駅はイコカの範囲外のため、ただの福島になったのでしょう。また阪神にも福島がありますが、これはJRの福島駅の方が古いせいかもしれません。と言うのも、今回調べて地下鉄御堂筋線の新大阪駅の方が、旧国鉄新大阪駅よりも古いことがわかりました。数日の差ですけど。「JR新大」の印字は、そのせいかもしれません。

2025/06/05

581系の想い出

2025年6月5日

鉄道ピクトリアル誌の7月号が、583系の特集でした。小生は581系が登場した頃から利用しており、学生時代は熊本-新大阪(新幹線乗換で東京まで)、社会人になってからは北九州の黒崎-新大阪間がもっぱらの利用でした。そこで、581系に関する想い出を書いてみたいと思います。なお一般には583系と言われていますが、門ミフでは583系は少数派であり、クハ583の登場後はクハ581が西日本に集められたこともあって、タイトルも含め581系と書きます。

熊本から東京への往復は20系「みずほ」がメジャーでしたが、「みずほ」の寝台券は入手が難しいこともあって、小生は寝台急行の「ひのくに」で新大阪まで行き、新幹線に乗り換えるというコースをよく使っていました。581系登場前の話です。なお小生は20系も含め寝台はもっぱら上段を使っていました。身長177cmの小生には全長175cmのB寝台は窮屈だったのですが、客車寝台の上段はベッドと荷物棚が繋がっており、枕を荷物棚の方に置けば、ベッドサイズが長くできたのです。

581系が本格登場して「ひのくに」が「明星」に格上げされると、581系を使うことが多くなりました。最初は昔の習慣で上段を取ったのですが、これがあまり良くありません。ベッドサイズは大きくなったのですが、荷物棚がなくなって手荷物と同居、上下の間隔も20系より狭い感じでした。

それではと次は中段にしたのですが、ここもあまりよくありません。結局一番値段が高い下段に落ち着きました。なお581系には上段と中段の寝台にオロネ10のような小窓が付いていますが、これがまず実用になりません。上段は下過ぎて見えるのはレールだけ、中段は上過ぎて架線柱しか見えません。頭のてっぺんに目があれば(カニか笑)、停車駅の駅名がわかったんでしょうけど。

なお同じ中段でも、パンタ下の中段は頭上が広く、ここの小窓は役に立ちました。一度だけここに乗ったことがあったのですが、下関でパンタ下降の大音響で起こされました。パンタの下降音は、外で聞いていると「ずしん」くらいですが、真下で聞くとものすごい音です。特急電車は直流区間は2個パン、交流区間では1個パンで、直流から交流に変わるときは、交直転換後の最初の停車駅(この場合は門司)と本には書いてあったのですが、関門間だけは交直転換前に1個パンにしているというのは初めて知りました。

一方下段は、窓側の中段との隙間に頭が入るので上半身を起こせ、寝ても広く、快適でした。しかし一度だけひどい目に遭ったことがあります。それは先頭車に乗ったときのこと、夜になってうとうとし始めると、頭の下から「コトコトコトコト」とコンプレッサの起動音がします。これがレールのジョイント音のように連続だと良い感じの子守唄になるのですが、コンプレッサは空気圧が規定値に達したところで「プシュー」と言って止まり、静かになります。しばらくしてうとうとし始めるとまた「コトコトコトコト」。結局よく寝られませんでした。クハ581もクハ583も、コンプレッサは床下ではなく機器室(クハ583は助手席の下)なのですが、下段には音がよく響きました。

小生の学生時代の年末年始は、寝台券は徹夜で並んで入手するのが当たり前の時代で、東京発のブルートレインは発売開始10秒で売り切れる時代でした。そんな時代ですから新大阪乗り継ぎの明星といえども手に入らないことが多々ありました。そんなときは、581系の前面貫通路を利用し、3両増結の15両編成ができないものかと、真剣に思ったものです。1972年の3月改正増発分まで製造されましたから、その分を少し前倒しにするとその前の年の年末年始輸送に増結できたのですが、そういう検討はされなかったようですね。

日本が元気な頃、「24時間戦えますか?」を地で行った車両でした。

2025/04/22

ワンピース新幹線

2025年4月22日


Img_01261a 4月12日から山陽新幹線に、「ワンピース新幹線」が走り始めました。小生は東京行きがあったので、帰って来た昨日、新倉敷まで撮りに行ってきました。

 

車両は「レールスター」用の700系7000番台を塗り替えたもの。現在はこの青の1本(名前は「せとうちブルー」)だけですが、25日から第2編成が入り、さらには第3編成も入ります。


Img_01301a 1両ごとに外部デザインが違っており、2号車には「ONE PIECE SHINKANNSEN」のロゴが入っています。車内も、車内放送も凝っているようですが、乗っていないので確認できていません。

 

第2編成が走り出したら、また撮りに来よう。
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