沖縄本土復帰50年
2022年6月16日
今年は、沖縄が本土復帰して50年になります。諸問題は置いておいて、ローカルな話題についてだけ書きます。本土復帰が1972年ですから、学生時代も含め、小生の子供時代は沖縄は「外国」でした。親父が沖縄に初めて行ったときは、パスポートを作っていました。これが2回目の時は、少し簡略化されたような記憶があります。
外国ですから、沖縄からの入荷は「輸入」になります。実は小生のふるさとの三角港は国際貿易港でした(今でも、書類上は貿易港らしいです)が、その貿易おいては沖縄が一番多かったのです。沖縄から琉球海運(RKKという熊本放送と同じ略称)の船で廃糖蜜液(サトウキビの汁の糖蜜液から、黒砂糖を取った残りかす)を輸入し、それをタンク車(貨車)に詰めて、肥後大津にある専売公社のアルコール工場に送っていました。そのため三角港には、大きな保税タンクがありました。
写真は「輸入」が国内輸送に変わった1973年の撮影ですが、機関車の後に繋がっているタンク車が、廃糖蜜を送ったものの空車返送です。タンク車の種別はアルコール専用で、「廃糖蜜液仮専用」という木札が付いていました。なおこの写真の牽引機は、現在大井川鉄道にいるC11190です。網田駅での撮影で、機関車ののテンダーを流用した給水タンクにもご注目ください。
沖縄から話がそれますが、八代にある十條製紙の製紙工場は、樺太材を使っていました。これも三角港に陸揚げされ、貨車で八代に送られていました。そのため大きな貯木場と貯木海面がありました。管理するための十條製紙の出張所もあり、電話番号が三角の1番だったので、よく覚えています。これは戦前戦中は国内輸送だったものが、戦後は輸入に変わったものです。そして1970年頃には八代港が改修されて大型船の入港ができるようになり、ソ連船が直接八代港に入るようになりました。そのため三角港の貯木海面も埋め立てられ、現在はスーパーが建っています。十條製紙の工場が今も樺太材を使っているかどうかは、全くわかりません。
なお沖縄からの廃糖蜜液も、専売公社の工場が閉鎖になったので入荷も取りやめになり、大きなタンクも取り壊されて更地になっています。
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