« コロナワクチン3回目予約 | トップページ | 母について(2) »

2022/01/21

母について(1)

2022年1月21日

小生の母親は大正3年生まれ、五黄の寅です。今年が五黄の寅だというので、少し母親のことを書いてみます。長いので、2回に分けます。

母は福岡県は飯塚市の生まれ、飯塚は炭鉱街です。二人姉妹の末っ子、すごいお転婆だったそうです。父親(小生にとっては、祖父)は早く亡くなっていますが、大手炭鉱のかなりの地位だったと思います。祖母が女手一つで小さい小間物屋をやって生計を立てていた割には、お稽古事をやったり、高等女学校まで出たりと、生活で困窮した話を聞いていません。

母はそのお転婆が講じて、炭車に乗って遊んでいるときに巻き込まれて左腕の大けがをし、動きには問題ないものの手首から肘にかけて大きな傷が残りました。お琴を一生懸命にやったのはお稽古事ではなく、この傷では結婚できないと思って身を立てるつもりだったのかもしれません。

その通りにお琴で身を立て、戦前はもうプロの演奏家として、福岡県内を演奏旅行して回るようなこともやっていたそうです。転機が来たのは久本玄智先生の演奏を聞いたときで、感激してこれからのお琴はこうでなくてはと思い、親友(女性で、やはりお琴の先生)と二人で自分たちの稽古場をたたんで上京し、久本先生に弟子入りしたそうです。こういう思い切ったことをやる行動力は、長姉が一番受け継いでいます。雪が谷から別れる新奥沢線の話は上京の話の中で出てきて、てっきり思い違いだろうと思っていたら、本当にあったのにはびっくりしました。久本先生は山田流で、今までの生田流から、山田流への鞍替えです。そして免許皆伝(師範)となり、親友と二人、八幡と飯塚に戻って山田流箏曲家として再出発しました。演奏旅行の話は、生田の時代か山田の時代かそれとも両方か、聞いたのも遙か昔で、細かいことはもう確認できません。

再度の転機が戦争の激化で、おそらくお弟子さんに教えたり演奏活動を続けたりができなくなったのでしょう。母は結婚する道を選び、親友はそのまま演奏家で何とかがんばる道を選びました。その時父は飯塚駐屯中の陸軍中尉で、姉二人は「白馬に乗ったイケメンの中尉さんに一目惚れしたんだ」と言っています。本当に乗馬は白馬だったそうですが。28か29なので、当時としては遅い結婚ですね。父も、母の前に1回結婚して子供ができないので離縁された女性がいた、ということを、ずいぶん後で知りました。

戦争中は、飯塚、広島、佐賀と点々としたそうですが、官舎住まいの将校なので、生活は楽だったみたいです。なお父はノモンハンで名誉の負傷を受け帰還していますので、2回目の招集では外地に派遣されることはありませんでした。終戦時は佐賀で、戦後は佐官以上が戦犯容疑で連行されたため、大尉に昇進していた父が最高位となり、進駐軍に対し「城明け渡し」を行いました。その日は父は連行されて帰って来られないと思っていたようで、官舎を出発するときに母に「行ってくる」と言ったとき、母も「この人はもう帰ってこない」と思ったそうです。そこで母一人娘一人でどうやって生きていこうと、頭の中で算段を始めたそうですが、幸か不幸か父は「ポツダム大尉で招集将校のあなたを、戦犯容疑になどしませんよ」と進駐軍に言われ、無事帰ってきました。その後の苦労を思えば、母はそこで母娘二人で琴の演奏家として生きていた方が幸せだったかもしれません。そうなると、小生は存在しませんが。

その大変な戦後、実家は戦前は「殿様」だったのが戦後の制度改革その他で残ったのは酒屋だけに落ちぶれてしまい、そこにあちこちから帰還した親戚その他が大勢同居していたそうです。小生も子供の頃、「おばあちゃん」が二人いたり、小生にはいないはずのお兄さんがいたりしたのを覚えています。その他に住み込みの従業員も大勢いました。母もそれだけの家庭を切り盛りする大変さからか、小生が生まれてすぐに結核にかかり、国立療養所に入院しています。入院前の写真が残っていましたが、写真屋さんが撮ったきれいなもので、多分形見のつもりだったのではないかと思っています。


明日に続きます。

« コロナワクチン3回目予約 | トップページ | 母について(2) »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« コロナワクチン3回目予約 | トップページ | 母について(2) »

フォト
2026年10月
日 月 火 水 木 金 土
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ