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2022/01/22

母について(2)

2022年1月22日

母の話を続けます。

母は戦後は琴を弾く余裕など無かったようですが、再開したのが小生が8才か9才になる頃でした。下の子(小生のことです)の手が離れた頃かと思っていたのですが、同居人の整理が付いた頃だったのかもしれません。切れた糸(これは絹糸)が張り付いた琴から古い糸を外し、新しい糸(これはテトロン)を張り、骨董品が楽器に戻る瞬間を、小生は面白がって眺めていました。

そこで琴を教え始めたのですが、最初の生徒は姉二人、それから姉の友人たちへと口コミで広がり、看板は出していなかったのですがずいぶん生徒さんが増えました。なお山田の長爪を使っていたのは母だけで、生徒には生田の角爪を使わせていました。

母と二人だけで旅行したのは、(おそらく)10才の時です。これもおそらく母方の従兄弟がらみの件だと思うのですが、ほとんどつきあいのなかった母方の親類縁者を回って、博多からバスで筑豊へ、それから八幡に回りました。博多までは準急「かいもん」、混んでいたので席がなく、1等車のキロ25に乗ったのを覚えています。博多からは篠栗線はまだなかったので、桂川へ行く西鉄バス、本数はたくさんありました。話し合いが主体で、小生はあちこちでかなり待たされた記憶があります。何で小生だけを連れた旅行だったのかは、わかりません。ただ小生は男の子にしては珍しく、じっとしていろと言われればじっとしていられる子だったので、連れて行くことが可能でした。桂川からは夜の筑豊線で、初めて聞く単音のピーという汽笛と、夜目にも黒く稜線の鋭いぼた山と、それに連なるベルトコンベアの灯りは忘れられません。一番驚いたのは折尾の立体交差で、跨線橋と思って階段を上がった上を汽車が走っていたのにはびっくりしました。

八幡と小倉の間、今考えれば到津あたりの宿に着いたのはかなり遅く、小生は半分眠っていたところに母の友人が訪ねてきました。一応起きて挨拶しましたが、「まあ!かわいい!」というのが第一声。その友人が、かつて一緒に上京した親友の緒方先生であることは、後で知りました。戦争が終わって、いやひょっとしたら結婚後初めて再会したのではないでしょうか。かつて一緒に上京して久本先生に弟子入りした二人、一方はお琴の道はあきらめて結婚し、もう一方はお琴を続けました。二人でどういう会話があったのかは、小生は知りません。小生は、「結婚してこうなった」の現物ですね。翌日、どういう経路で帰ったのかは覚えていません。母と二人だけで旅行したのは、後にも先にも、この一回きりでした。

これはテープレコーダーが普及し始めた頃なので12才くらいの時ではないかと思うのですが、母の古い知人という方が小生の家を訪ねてきました。死ぬ前に昔の知り合いを訪ね、いろいろ録音しているのだ、と言って、母に演奏を頼みました。何でその場に小生がいたのかわかりませんが、おそらく録音助手でしょう。小学校は放送部で、テープレコーダーの扱いには慣れていました。母の演奏はいつもの「先生」の演奏で、録音終了後「どうでしたか?」と聞いたらため息をついて、「やっぱり昔に比べたらね」。昔はこんなものではなかったと言うのです。そのことが一番良くわかっているのは母自身ですが、母はどう思っていたんでしょうね。少しでも取り戻したいと思っていたのか、昔は昔と割り切って、いや割り切らざるをえなかったのか。父はどうせ「家の仕事に影響のない範囲なら許す」とか言ってお琴を許可しているはずなので、割り切らざるをえなかったのでしょう。

小生が管楽器の方が好きなことがわかってから、母はさかんに小生にフルートをやることを勧めていました。フルートなら、お琴と合奏ができるのです。ヴァイオリンやチェロでも合奏できますが、始めるのは間に合いません。大学でオーケストラに入り損ね、結局合奏はできませんでした。次姉はそれなりに(それなりと言っても師範級)でき、長姉に至っては母よりうまい部分も多々あったので、この2人との合奏はやっていましたが、やっぱり小生と合わせたっかったのでしょうね。親孝行はできませんでした。

自宅で教えていたお琴教室(三角町玄箏会という名前でした)は自宅2階で小さな発表会はやっていたのですが、町民センター(元の映画館)を借りて大きな発表会をやったのは、1968年3月でした。最大で琴が13面も並ぶので、熊本に借りに行き、長姉と二人で店の1トントラックを運転し、「貴重品運搬中、お先にどうぞ」という張り紙を荷台の後に貼り付け、琴を4面平積みにし、道路状態も良くないのでいつもは1時間で走れるところを2時間半くらいかけたのろのろ運転で運びました。

その発表会には八幡や飯塚から友人や昔のお弟子さん(今は大先生)、さらにはヴァイオリン、チェロ、コントラバスという賛助出演もあり、久本玄智作曲の「感謝の一日」は、第一箏6面、第2箏7面、ヴァイオリン2,チェロ、コントラバス各1という大合奏でした。これは譜面の指定に近い編成らしいのですが、こういう合奏はその後どこでも聞いたことがありません。母は準備が忙しくて自分の稽古まで手が回らず、その日の聞かせどころ、第一箏緒方先生、第二箏母、第三箏長姉(その時は師範)という三人の合奏で久本玄智作曲の「躍進」を弾いたのですが、母の暗譜ができておらず、かなりいい加減に弾いていたと後で姉から聞きました。この時のお琴の教室の名簿には、30人の名前が載っています。小生はこの時は裏方、もっぱら運搬係でした。

この時のコントラバス賛助の大槻先生は、その後九響の首席コントラバス奏者を務められた方ですが、この時の肩書きは「NHK九州交響楽団九州放送管弦楽団」になっていました。九響がプロになったのは1973年ですから、その前です。

華やかなのはここまでで、次の夏に帰省したときには、主治医の先生が転勤したとかで、母を水俣市民病院まで送っていく仕事ができました。後で聞いたところ、絨毛上皮腫という病気だそうです。次の夏には熊大病院に入院していて、亡くなったのは翌1970年の1月、小生が20才の時です。抗癌剤の副作用対策での血小板補給のための供血、これができたのは家族では小生だけで(他は血液型が合わない)、まあこれが親孝行ですかね。前に書いたお琴の発表会の場所が、葬儀会場になりました。

今日1月22日は、母の52回目の命日です。母が死んだのは55才だったので、だんだん年数が近づいてきています。

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