五木の子守唄と肥後手まり歌
2020年4月13日
赤坂憲雄著、「子守り唄の誕生-五木の子守唄をめぐる精神史」(講談社現代新書)を読みました。赤坂氏の著書はちょっと前に「ナウシカ考-風の谷の黙示録」(岩波書店)を読んでいますので、立て続けになります。
いや、驚きの連続でした。まず子守唄について、親が子供を寝かしつける子守唄ではなく、子守の娘が歌う労働歌としての子守唄、守り子歌と呼ばれていますが、これがあるのは日本だけというのにまず驚きです。この守り子歌というのを意識して分けたことはなかったですね。この守り子は身分的に最下層におかれていたことが五木の子守唄の歌詞のあちこちから見て取れます。
定説ではないと思いますが、歌詞の期限を紀州あたりから出て近くは豊後からの流れヤマシ(鉱山の山師ではなく、山林伐採の特殊技能者)においたのも、驚きでした。しかし五木は人里離れた山奥のようでありながら、人の出入りは多かったんですね。九州山地は福岡から鹿児島まで抜けられる尾根道がありますから(かつて西南の役の時の西郷軍の撤退ルート)、ある意味五木は交通の要所でもあったはずです。外から持ち込まれた文化も、多かったでしょう。
子守唄については今度松永伍一著「日本の子守唄」を読んで、もう少し勉強します。
過酷な環境で歌われた労働歌である「五木の子守唄」を、熊本県を代表する民謡と言って良いかどうかですが、「民謡」と言われるものはほとんどが暗いですね。明るいのは「新民謡」で、大正から昭和にかけて作曲された、言わばご当地ソングです。「東京音頭」や山形の「花笠音頭」などはその代表ですね。「新民謡」で良ければ、熊本には、熊本の人しか知りませんが、「五十四万石」というものがあります。まあこれも3番では花街を歌っているので、問題といえば問題ですが。
話は変わりますが、以前手まり歌の「あんたがたどこさ」は関東方言が使われており、熊本の歌ではない、と書いたことがあります。そして、川越発祥説というのも、見ました。官軍として従軍した熊本藩の兵士との問答というのですが、そうするとこんな光景が浮かびました。
「お侍さん、どこから来たの?」
「肥後たい」
「肥後と言っても広いよ(阿蘇も天草も肥後よ)。肥後のどこさ」
「細川様のお膝元、熊本たい」
「熊本のどこよ」
「御城下の、洗馬ばい」
「仙波山は川越にもあるよ」「仙波山には狸がおってさ」
自分は都会である御城下から来たと言ったつもりが、すっかり狸の出る山の中から来たことになってしまいました。熊本市の中心部(旧市街地)にすむ方達は中央意識が強く、今はもう廃れたと思いますが住所を「市内」と言っていました(まだ言っていたりして(^_^;)。八代市に行っても、平気で「市内から来ました」と言っていました。「市」と言えば熊本市で、他の市は市ではないという感じですね。かつて東京都区内の郵便ポストの差し出し口に、「都区内」「地方」と書かれていたのと同じ発想です。「あんたがたどこさ」の歌詞をじっくり見ていたら、こんなことを考えました。
« 私製車椅子マーク | トップページ | 3ヶ月に1回の、歯科定期検診 »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 熊本に行ってきます(2026.10.13)
- LEDスタンド(2026.10.07)
- 東京から帰ってきました(2026.10.04)
- 今日から10月(2026.10.01)
- 住民票コード(2026.09.26)


コメント