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2017/12/24

レコーディング記

2017年12月24日

前回第9のDVDのことを書きましたが、小生は(と言うより、小生が所属していた合唱団は)昔LPを吹き込んだことがあります。ちょっと思い出して、その時のことをまとめてみました。クリスマスの、昔話です。


1969年、小生は大学3年生である。1年生の時は真面目に練習に通った合唱団であったが、2年から専門課程になって校舎が(武蔵)小金井になり、小生は沼部の下宿から引っ越さなかったため、沼部から渋谷経由で府中まで(府中からはバス)1時間以上かけて通うことになってしまった。更にそこから三田近くの練習会場に通う三角移動になるわけだが、再履修科目が出たためそれが5時限目に入り、とうとう練習に通えなくなり、合唱団は休部になってしまった。3年になり千歳烏山に引っ越し、5時限目もなくなってまた合唱団に復活した。そして何と、レコーディングもやることになった。

関西学院大学などはわりとよく吹き込みをやっていたが、小生がいたK大WS男声合唱団はレコーディングはあまりやらなかった。ここに来て急にレコーディングになったのは、その年のアメリカ公演の渡米費用補填のためだと、後で聞いた。なおこのアメリカ公演、小生は行っておらず、更にパートによって渡米メンバーに選ばれる/選ばれないが最も顕著に出たのが小生達の世代で、卒業後小生を含め同期会には出るが全体の同窓会には出ない、という顔ぶれが増えた原因にもなった。

閑話休題。録音は5月24日(土)、世田谷区民会館で行われることになった。曲は多田武彦作曲男声合唱組曲「雪明りの路」、指揮はブル先生である。多田武彦氏の作品はほとんどが無伴奏、と言うより小生はピアノ伴奏の付いた多田作品を知らない。その前の週の5月18日に東京六大学合唱演奏会(通称、六連)で東京文化会館で披露し、好評だった曲である。

会場の世田谷区民会館にはどう行ったのかは記憶にないが、スマホはおろかパソコンすら無い時代、安全確実な渋谷経由で世田谷区民会館行きのバスを使ったのだと思う。集合は午後1時だったか1時半だったか、土曜も午前中は授業があるため、三田から特急で駆けつけてやっと間に合う時間であった。小金井(小生は府中)からまともに行ったら間に合わないが、確か3年前期は土曜の午前中は電気工学の実験だったと思う。実験だと、要領の良いメンバーがいれば、さっさとデータを取って指導教員(私立なので、教官ではない)に確認をもらえば、時間前に帰れる。小生はそれで駆けつけたが、同じ電気科で合唱団のHはデータが取り終わらずにあきらめた。

無事集合時刻前に世田谷区民会館に着いた。ただしこれまたコンビニおにぎりなど無い時代、昼食抜きである。まあ何とかなる、と思っていた。会場はビクターの技術者さん達がマイクを建てて準備をしている。これまた確かではないが、ステージではなく客席の前の方からステージに向かって歌ったような記憶がある。

発声練習後まずは試し録り。一週間前に演奏会をやったばかりなので、完成度は高い。すると録音ディレクターから、「先生、全然ダメ!まるでフラット。」録音ディレクターは女性で、別室からマイクで伝えてくる。さすがビクターの録音ディレクター、耳が肥えている。気を取り直してもう一度、「先生、やっぱりダメ!」ブル先生「みんな、一体どうしたんだ!」すると元気なく「おなか空いた。」小生だけではなく、三田のメンバーも時間を守るために食事する時間がなかったのだ。ブル先生はディレクターさんと協議し、このままでは録っても使えそうもないので、「よし休憩、みんな食事に行ってこい。ただし腹一杯は食うなよ。」と臨時の昼食時間になった。当然、小生も出かける。

普通歌う直前に食事するのは、喉に脂肪が膜を作るので、やってはいけないことになっている。ところが食事を終えたらみんな元気いっぱい、再度歌ったら、「先生、これならOK。」若者には大人の常識は当てはまらない、と言うことになった。その後「梅ちゃん」だけは六連の時は「火を出した」をほとんど「シを出した」という発音で歌っていたのを、シだと子音が強すぎてレコードでは聞きづらい、と言うことでいくらかヒよりに変えたくらいで録音は順調に進み、無事終了した。

この録音は、ビクターよりLP(SJX-1017、現代日本合唱曲選5、多田武彦作品集男声編)で発売された。A面は「柳川風俗詩」と「雨」、B面が「雪明りの路」に、「ふり売り」、「年の別れ」。「雪明りの路」以外はいずれも協ちゃん先生指揮の関西学院大学グリークラブで、何のことはない、関学に便乗させてもらった格好だった。ただ両合唱団の音色はまるで違い、一度FMで「雨」から続けて「雪明りの路」が放送されたのを聞いて、その音色の違いにびっくりしたことがある。

このLPに収録された関学の「雨」は絶品で、当時つきあっていた女の子にこのLPをプレゼントしたが、彼女は「雨」ばかり聞いていると言っていた。なおその後小生はその女の子と結婚したため、家にはこのLPが2枚並ぶことになった。

後日談になるが、新しく出たCD(VZCC-25)では「雨」は京都産業大学グリーのものに差し替えられている(いきさつは、こちら)。そのため、LPから凡太郎氏に頼んでデジタル化してもらった。これは小生のパソコンとウォークマンに入っており、LP自体は岡山への引っ越しの時に動かなくなったレコードプレイヤーと一緒に処分してしまったが、音源だけは確保してある。また今回YOU TUBEを検索して出てきた「雪明りの路」の中に出所不明のものがあったが、聞いてみたら我々が歌ったものだった。ご参考まで
もう48年も前の話である。

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コメント

レコード処分しなきゃあよかったですねえ。いまレコードはやっているみたいで、安いのだと直接LINEにつなげるやつもあるようです。ぴんきり。小生はずっとヤマハのGT2000Lというのをちょうど学生時代か入社してすぐこうたのが現役です。MCトランスとかEQアンプとかいらなくて、ラインアンプ(プリメインだったらCDと同じレベル)適応です。
実験は必修科目かな?落ちると留年?あたしも3年のとき毎日午後は実験で難儀でした。

ひでほさん、ありがとうございます。

LPは立てて保管していたため、変形していました。そのためデジタル化しても雑音が多く、ソフトでフィルターをかけ、何とか聞けるようになりました。そのため、デジタル化した後は処分です。
この多田武彦作品のLPだけは、解説も書いてあるし、1枚残そうかとも思ったのですが、岡山ではステレオは置かないことにしたし、部屋の収納スペースも減るので、アイザックアシモフの本などと一緒に処分です。
小生のいたところは留年機会は2回あり、1回目は専門課程に移るとき、2回目は卒業研究に着手するとき(研究室に配属されるとき)です。実験は落っことすと、留年です。

あ、そうでした。実験は、必修科目でしたね。
実験を落とすことって、あるんですか?
出席さえしていたら、何とかなったイメージがあります。
卒論発表は、たしかに、大変でしたね。

関西学院大学のグリーは、表現力がありますね。
いや、K大学のグリーも、頑張っていますよ。

ところで、南海さん、大学時代、青春されてましたね。
ちなみに、うちの夫は、W大学の物理でしたが、実験室に住んでいると言われていたそうです。

「雪明りの路」初めて聴きました。素晴らしい合唱ですね!!
合唱もよかったけど、南海さんの青春のお話が素敵でした。
特に”つきあっていた女の子にLPプレゼント”の下りが。

yokobueさん、ありがとうございます。

いやあ、青春していましたが、道に迷っているのも青春のうち、と言うやつで。良かったのは1969年までで、翌1970年の1月下旬に、母親が病死しました。そのため3年後期の試験は受けられず、全科目追試か再履修でした。実験も穴を空けたのですが、幸い3年後期の実験は4年前期までまたがった1年もので、「再実験」を入れてもらって無事単位をもらえました。
実験を落っことすのは欠席もですがレポートの未提出で、「要再提出」を食らってもたもたしているうちに時間切れになってしまうやつがいました。
小生もよく実験室で寝泊まりしていました。ちゃんとベッドがあり、布団も置いてありました。

ドレミさん、ありがとうございます。

あの雪明りの路の中間の「そっと、窓の雪を」の部分はセカンドテナーのパートソロで、先輩から「セカンドとは思えない!」と変な褒められかたをした部分です(^_^;。
LPをプレゼントした頃は、結婚までは考えていなかったんですね。それがどういう風の吹き回しか若気の至りか、今に至っています(笑)。

南海さん 青春時代の楽しいお話をありがとうございます。

コメントへのコメントになりますが^^;;;
私も実験ではよく徹夜というか、朝方まで実験したのですが、その時は実験室の隣にあった無響室で寝ました。だれかが電気こたつと座布団を十数枚集めてきて、交代で寝ましたね。

それでも足りない分は授業中・・・・講師も起こさないし。。。

レコードは全部、CDは仕分けして半分弱処分しました。全体で15%ほどで売れたのでまあまあ。。レコードプレーヤーもいずれ処分(売却)予定です。

豆パパさん、コメントありがとうございます。

小生の頃はまだ測定器具も潤沢ではなく、オシロスコープの数が足りないので時間差を付けて測定するしかなく、小生は精神的におかしくなって昼夜逆転していたので、もっぱら夜に測定していました。今考えれば、暖房はなかったですが、冷凍機(実験槽の除湿用)の廃熱でそこそこ暖かかったような気がします。
CDも半分弱処分されましたか。小生も引っ越し前にCDもいくらかは売り、その時松田聖子のCDに高値が付いて喜びました。

青春ですなあ!!!!!!昼夜運転の物理化学の研究室、2回も爆発事故あったの思い出しました。熱力学のなんたら法則とか、授業うけたのすっかり忘れて、痴呆じじいまっしぐらです。研究室はラーメン常備、わんたん麺なんですよ。ビールも冷えていました。
精神がやんだときはL-アスコルビン酸を薬だなから失敬して毎日なめていました。当時からうつで、あのころは青酸カリとか、そこいらにそのままおいてあって、ひでほがのんだらやばいから隠せと、講師の先生に隠されました。暖房はストーブ、あとあたしがいつも実験していた高速液体クロマトグラフイのお部屋はエアコンあって、みんな涼みにきてました。夜宿泊はありえませんでした。講師の先生がいないときに実験はNGでした。大学院の先輩がいたときに、高酸と高アルカリを中和させるときに、怖いひやっとしたことを先輩がやっていてびびりましたが、どんなことやったかは忘れました。
化学系の研究室なのにエアコンなくて、室温も一定にしたいお部屋だけエアコンありました。いまみたいにPH計も電子式でなく、高価で1回わってしかられました。何十万もするカラムもこわし、いいかげんな論文かいて卒業。教授の研究だというのに指導もなく、教授発表するとかいって、それだけはやめてくださいとお願いしました。その次引き継いだひとはまた違う結果が出て、発表しなくてよかったです。出し逃げ不良学生。よく論文とおったものです。小保方さん非難できないです。その後教授なくなって研究もなくなって、かなしいけどある意味ほっとしている悪いやつです。講師の先生は教授になり退任、いまも交誼があるというふしぎな関係です。あのころから南海さんみたいにまじめにやって、まともな会社にはいって、結婚して・・・・・・・・・・って思いました。てへへ

ひでほさん、ありがとうございます。

小生がいた頃のK大工学部小金井校舎は、戦時中横河電気の工場だったところで、すごいボロ校舎でした。そのため小生達が卒業した翌年、日吉の隣の矢上台に引っ越しています。そのため冷暖房に関しては、かなりいい加減というか、ほとんど無い状態でした。
電気(それも重電)の実験室だったので、アルコールを含む薬品はなかったですね。ただガスコンロがあり、小生はホットケーキの素を持ち込んで焼いていました。
卒論の実験でデータは取れたのですが論文の考察は甘く、よく卒業できたと思います。あの時代は学園紛争真っ盛りで、下手に留年させずにさっさと追い出そうという雰囲気でしたね。それで助かりました。

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