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2017/05/18

ポツダム少尉

2017年5月18日

フランツさんから紹介のあった「ポツダム少尉」、市立図書館から第3版を借りてきて読みました。思っていたより大きいB5版200ページの本ですが、コート紙を使ったグラビア(オフセット?)印刷、ハードカバーの立派な本です。これを自費出版され、版を重ねられているのですから、すごいです。

内容は、お父上の戦時中での活動拠点(呉海軍工廠)でどういうことをされていたかを探っていく物語ですが、その時の関係者もいろいろ訪ねられています。

作者のお父上、宮内貞之介氏は1922年(大正11年)の生まれで、高等工業を卒業後、ぎりぎりで海軍に入隊された世代ですね。小生の親父は1908年(明治41年)生まれですから、一世代違います。従って終戦の8月15日時代はまだ少尉候補生で、ポツダム宣言受諾後に少尉任官、だからポツダム少尉というわけですが、このポツダム少尉というものは、初めて知りました。

あるとき突然、水が沸騰するように昔のことが気になって調べ始めた、ということが書かれていますが、小生も親父のことを調べ始めたのはある日突然、きっかけは実家の整理をしているときに古い資料が出てきたからですね。その資料というのが「ノモンハン事件陣中日誌、戦闘詳報」なるもので、中身はガリ版刷りと「陸軍」と書いた専用用箋の写し(本当のカーボンコピー)です。親父は戦時中中国大陸にいたのは聞いていたのですが、ノモンハンとは聞いていませんでした。それからノモンハン事件に関する本を探して、アルビン.D.クックスの「ノモンハン」に巡り会ったおかげで、親父が負傷した日付までわかり、また電信第2連隊の同窓会組織の会報みたいなものも出てきたおかげで、第2回の招集の時は電信第2連隊に(組織上)いたことがわかりました。おかげで、1945年(昭和20年)の6月頃広島にいたという話の、「なんで広島?」という謎も解けました。

小生の場合は本があったので助かりましたが、写真だけを便りに自力で調査されたのには、頭が下がります。

なおこの本には矢岡壮介画伯の呉海軍工廠の回想画が載せられていますが、その中の「大型鋳型への溶鉄の注入」場面では、1971年(昭和46年)の某電機会社の鋳物工場での実習を思い出しました。そっくりです。作業員がヘルメット着用になったのは1975年過ぎで、まだ作業帽でした。新人の研修なので危険な溶鉄注入作業などはなく、もっぱら鋳型造りだったのですが、電気炉周りは作業をやり、溶鉄を入れた取り鍋にクレーンのフックを引っかける補助もやりました。長袖の作業服に革手袋なのですが、溶鉄の上に手をかざすと輻射熱でやけどをするから、と注意され、腕を見たら革手袋と作業服の隙間のむき出し部分が赤くなっていました。戦時中の学徒動員は「戦力」ですし、安全対策もほとんど無かったでしょうから、大変だったでしょう。

岡山に引っ越してきて2年あまりということもあって、呉にはまだ行っていません。今度機会を見つけて行って見ようと思っています。

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コメント

南海凡吉様

この度は、ご縁があり、今回このような形で紹介頂きましてありがとうございました。

子供時代に父から見せられた昭和20年9月7日付の集合写真に基づいて平成24年8月から調査を開始しました。

周りからは、半ば飽きられましたが^^人生って不思議なものです。徐々に分かる方向に導かれたのです。

呉海軍工廠の製鋼部(現在は、日新製鋼のエリア)の回想画に興味を持って頂けてありがとうございます。

当時の呉工廠内は、スケッチなどは、諜報活動で固く禁じられておりましたので、絵を描くことは犯罪になります。

Y先生は、戦後、自分の脳裏に焼きついて離れない当時の呉工廠内の風景を残して伝えたいとの想いでお書きに

なられたと伺っております。

南海凡吉様の炉の作業の解説のとおり本当に過酷な作業ですよね。

また、回天や出撃する巨大潜水艦イ400を見送る学徒動員の少年少女たちの姿も感動です。

最初は、父の足跡を追っていたのですが、こうした当時の学徒動員も調べております。

本当に戦争時代の状況は、過酷だったのですね。

この度は、本当にありがとうございました。


フランツさん、ありがとうございます。

あの集合写真、名前の一覧も付いていて、良かったですね。あれが本当に写真だけだと、手がかりにならなかったろうと思います。
Y画伯の呉海軍工廠の回想画はとても戦中には描けなかったと思いますが、戦後まだ記憶が鮮明なうちに描かれたことは、ありがたいことだと思います。細かいところまで、鮮明です。小生の鋳物工場実習の時はもう電気炉(それも、低周波誘導炉)で排ガスは出なかったのですが、戦争中はおそらくキューポラで、作業環境もかなり悪かったろうと思います。
まとめRESで失礼しますが、満州からペリュリュー島への転戦ですか。また寒いところから暑いところへですが、戦争中では当たり前の移動だったのでしょう。

南海凡吉様

今晩は! 昭和20年9月の集合写真ですが、当時の関係者に見せると、敗戦から1ヶ月・・。
写真を撮ることでも難しいはずなのに、80数名の苗字と階級を書いた配列表まで付けていた❗
当時の方々に見せると、「海軍には、まだまだ余力があったんではと誤解しかねないねー。」と話されました。確かにそのとおりです。
この撮影の時の皆さんの気持ちは・・。

また、学徒の作業環境については、特に、本当に、製鋼部は苛酷な作業で、労災は多発していたはずです。
本当に悲惨な時代だったのです。
こんな時代が2度と来ないことを祈るばかりです。

フランツさん。
確かに、余力があるようにも見えますね。ただ陸軍でも、国内は「本土決戦」のために温存していたところもありますから、まだ余力があるように見えるところもかなりあったのではないでしょうか。
小生が工場実習をしていたところは鋳鉄ですが、これが鋳鋼になると温度もさらに高く、かなり過酷です。今だったら耐熱防火服を着るような職場ですね。根性では災害は防げません。

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