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2012/03/31

A列車で行こう(5)

2012年2月27日(月)

天気、晴。今日は暖かい。昨日見せてもらった郵便船の新聞記事、バックナンバーとして手に入れられないかどうか、新聞社に電話する。すると、日付と書いてあるページか記事内容が判っていれば、データベースからコピーしてくれるとのこと。早速世安の熊本日々新聞社(熊日)の本社に向かう。小生が知っている熊日本社は上通りの入り口にあったが、ずいぶん前に移転したようだ。新聞社が街の中心部を避けて移転するのは、世の流れのようだ。最も最近は印刷工場は別になっているところもあり、そうなると本社は中心部、印刷工場は郊外ということになる。

世安までは、バスになる。そのため、交通センターに行き、バスを探す。かつての市電川尻線のコースを通るのでてっきり市営バスかと思ったら、産交バスだった。そうしたら、今度は乗り場が判らない。乗り場は判っても、今度はそこへどうやって行けばいいのかが判らない。本当に熊本の交通センターは、不便だ。やっと行き着いたかと思ったら、バスは1時間に1本、そうしたら隣の乗り場からも、経由地が違うバスがあった。このあたりも、慣れた人でないと判らない。

産交バスで熊日本社へ、受付で行き先を告げるとエレベータで行けと言われた。てっきり1階の、比較的出入りが自由なところにあるとばかり思っていた。所定の階に付くと、電話で用件は告げてあったので、早い。これで1971年の新聞記事が手に入った。

この世安の熊日本社、隣に新聞博物館がある。時間に余裕があれば行って見たいところだが、今日は帰る日、しかも翌日に備えて飛行機は早い便なので、あきらめる。

交通センターに戻り、そこからまた先輩の家を訪ね、お昼までごちそうになって、熊本空港へ。熊本からはJALだが機体は昔のJAS、MD-90-30である。5列シートは久しぶりだ。DC-9シリーズの中では新しく、1997年の登録だ。揺れもなく快適。行きにはおなかを警戒して飲まなかった「こだわりのコーヒー」も頼む。定刻、無事に羽田空港に到着した。

(完)

2012/03/25

A列車で行こう(4)

2012年2月26日(日)(つづき)

網田を通過し、赤瀬の坂にかかるあたりで、ちょうど御輿来海岸がよく見えるところがある。そこで、減速する。潮の具合が良いと(最干潮からちょっと満ちたあたり)きれいな縞模様の砂浜が見えるのだが、今は満潮だ。Img_3374a


キハ10系の時代だったらここで減速するとそれからの登り坂では加速が効かず、大変なことになっていた。そこはキハ85のパワーの余裕である。

車内は、相変わらずバーが賑わっている。どうも皆さん、三角に着くまでに2杯は入っているようだ。バーカウンターに乗車記念スタンプがあったので、押してくる。「あまくさみすみ線」、いつ変わったんだ?Img_3403a


三角に到着、三角も側線の大部分と貨物ヤードがすっかり無くなり、普通の盲腸線の終端駅になってしまった。ひょいと見ると、線路の終端(その先は国道57号線)近くに、先行の各停のキハ200が止まっている。昔の、5両編成が主体だった頃は、入れ替えをして3番線で退避していたが、今の2両編成だとポイントを切り替えずに退避ができるのだ。「A列車」が折り返した後、この各停が追いかけて出発するのであろう。Img_33752a


三角駅の外に出ると、マイクロバスが待っている。そしてほとんどの人が、そのマイクロバスに乗り込む。どうやら天草のどこかと提携したパックツアーだろう。そして桟橋には、本渡行きの快速船が待っている。Img_3376a


三角からの本渡行きの船は、天草五橋の開通で廃止されたが、熊本新港開業時に「バスより速い」という鳴り物入りで熊本-本渡間の快速船が登場した。しかし熊本新港は自家用車以外の人にはアクセスが悪く(バスがどこから出ているのか、全く判らない。Img_33781a


熊本のバスは、本当に不便だ。)結局廃止された。それを受けて数年前に三角-本渡間で再開したのだが、「A列車で行こう」にはしっかり接続している。色もキハ85に合わせて塗り替えられたそうだが、昔の色を知らないので、何とも言えない。Img_33811a


この快速船、快速艇と言った方が良いくらいの大きさ(小ささ)だ。20人くらいの人が快速船に乗り換え、出港していった。本渡まで1時間、バスなら1時間半かかるところだ。三角港は船が減った分、かもめが幅をきかせている。Img_33821b


三角での用事を済ませ、かつて郵便船を運営していた会社に行く。この郵便船、小生の知っている限りでは戦後ずっと、天草五橋の開業後も1975年3月まで三角と維和島及び合津(松島港)の間を結んで運航されていた郵便船だが、日本で最後まで残った郵便専用船だそうだ。面白い話が聞けた。この郵便船、逓信総合博物館にも何も展示はなく、公式の記録があまり残っていないようだ。郵政民営化の前ならもっと資料が集められたかもしれないが、ちょっと遅れた。Img_33921a


駅へ帰る途中、町営(現在は、市営)となった戸馳渡しを見つけ、戸馳島に行ってみようかとも思ったが、1時間に1本だと帰りが心配で、止める。食事をどうしようかと思っていたら、ちょうど三角駅で駅弁を売っていた。常設の売店(中学の同級生が売り子をやっていた)は廃止されて久しく、宇土から出張して売っている。Img_3398a


現在の三角には、イベントがあってもそれを受け止める力がなくなってきている。それはともかく、キハ40の車内でおいしくいただく。キハ31の単行はトイレがないので旅行者からの苦情が多く、休日はキハ40を併結するようになったのだろう。せっかく両運転台のキハ40がいるのだから、単行の部分もキハ40にしてくれればいいのに。Img_3401a


熊本で、久しぶりに高校時代の仲間二人と一杯やる。なんと、二人とも身体障害者手帳の保有者になっていた。一人は腎臓、一人は心臓である。まあ三人とも生きているのだから、それが目出度い。

熊本泊。
(つづく)

2012/03/23

マーガレット・サッチャー

2012年3月23日

映画「マーガレット・サッチャー」、見てきました。どんな人にも確実に迫ってくる「老い」、ちょっと、身につまされました。

サッチャーさんの評価はいろいろあると思いますが、間違いなく、国家のために命をかけた方です。それが国家のためであって国民のためでなかったことが、多くの英国民にとっては不幸なことでしたが。

あれだけの激務、心の病になりそうです。後半の部分は、首相在任中にすでに心の病にかかられているのではないか、と思える部分がありました。その最後の部分、首相を辞任する決断をする同じとき、小生はロンドンにいました。ニュースを聞いて、ダウニング街10番地に行って見たものです。記者団が群がっていましたが、日本のような物々しさはなく、あっさりしていました。翌日の「勇気ある撤退」(だと思う)と見出しが躍っている新聞を買ってきましたが、さすがにどこへ行ったのか、不明です。

それにしても、メリル・ストリープの演技はすごい!さすがアカデミー賞。

2012/03/20

A列車で行こう(3)

2012年2月26日(日)

天気、曇。どんよりとしているが、雨は落ちなさそうだ。今回の旅行の、今日がメインである。特急「A列車で行こう」は熊本発10:36、熊本に宿泊すると、ゆっくりどころか時間が余る。Img_3330a


一度熊本駅に市電で出て、その時途中で見た銅像のあるところに行って見る。市電で1駅ほど行ったあたりに、「おてもやん」の像があった。「おてもやん」は永田いね作、一座を作って巡業していたときの作だそうだ。前にも書いたが「下品」で、酒席用の歌である。Img_3342a


熊本駅に戻り、発車にはまだ1時間ほど時間があるが、ホームに出る。熊本駅は新幹線が開業して優等列車がなくなったせいか、エスカレータが使用停止になっている。いくら在来線でもこれはないだろうと思うのだが、熊本駅は現在在来線も高架化の工事中なので、一時的な処置だろう。Img_3334a


ホームはかなり入れ替わっているが、1番ホームだけは昔のまま、そこを通過する貨物列車も昔のままである。ただ牽引機がEF81に変わっている。交流専用機に比べるとEF81は空転しやすく、運転士としては歓迎しないだろう。Img_33401a


ホームに肥薩オレンジ鉄道からの直通列車が入ってきた。土曜、休日は、熊本まで乗り入れてくるようだ。HSOR-152型の単行で、調べてみたらイベント用の車両だ。利用客の多い熊本-八代間にはもう1両増結したいところだが、総括制御のできる車両がJRになはさそうだ。Img_33461a


昔は、国鉄の気動車は特急用を除いて全種類連結でき、私鉄側も国鉄と併結のできる車両を造ったものだが、肝心の国鉄/JRの気動車が系列内しか連結できなくなってしまった。Img_33511a


やがて5番線に「あそぼーい」が入線してくる。86が豊肥線から肥薩線に去って、「あそぼーい」は気動車になった。キハ183系1000番台、この車両は電車と総括制御できる気動車として造られたが、電車と併結した時代は短く、あちこち転々としている。ただ数少ない前面展望車である。Img_33531a


このリニューアルも、ドーンデザインである。4番ホームの「A列車で行こう」とは10分差なので、イベント特急が2本並ぶことを期待したが、どうやら意識的に並ばないようにしてあり、「A列車で行こう」の入線前に発車していった。Img_33541a


するといきなりホームにジャズ「A列車で行こう」が流れ始める。そしてやおらキハ185が入線してくる。こういう演出だと、「あそぼーい」はいない方が良い。それにしてもこの「A列車で行こう」だけでなく、三角線にもずいぶん力を入れているようだ。三角線に力を入れるのなら、線路規格を上げて最高速度を95km/hに上げてくれ! 観光に適さない2月というのに、ホームは大賑わい。この列車、なかなか注目されている。Img_33611a


やがて発車。発車とほぼ同時に、この列車の売り物の車内バーに、乗客が殺到する。しかしまだ準備中。これは不手際だ。乗車時間が30分もないのだから、乗務員は車両基地で乗り込み、発車前に準備は終えておくべきだろう。かつての食堂車は、そうやっていたはずだ。しかし何とか宇土に着く前に、言い換えれば三角線に入る前に準備は終わる。Img_3366a


九州新幹線の熊本車両基地は地平で在来線と同じ高さにあるので、在来線からよく見える。これは良いPRで、列車はまず「乗りたい」「乗ってみよう」と思わせることが大事だ。その点最近の、特にJR東の列車は走行中に方向幕を消しているが、これは常時点灯すべきだ。京浜東北線から見える「特別快速、高崎行」の方向幕は、「あんな列車があるんだ」と思わせること、請け合いである。Img_33721a


宇土で停車、途中停車駅は宇土だけである。三角線の閉塞の都合上の、運転停車に近い。宇土の駅も、ずいぶんシンプルになった。宇土を発車し、複線の鹿児島本線を平面交差で横切り、大きく右に曲がる。九州鉄道の計画時は、三角行きが本線であった。しかし工事の時には八代方面が本線になったので、線路は八代方面に直進し、三角線は大きくカーブを切っている。このカーブが終わると長い直線に入るが、三角線は旧丙線規格のため、最高速度は75km/hである。キハ85がパワーをもてあましている。Img_33731a


住吉、網田と、行き違い設備のある駅を通過する。対向列車はいない。三角線の優等列車はこの特急が初めてではなく、昭和38年(1963年)には急行「ひかり」が走っていた。この時代は通票閉塞で、通過時にタブレットの受け渡しをやっていた。今は特殊自動閉塞なので、ワンマンカーでも通過できる。三角線内の行き違い設備は、丙線区間の駅は皆そうなのかもしれないが、スプリングポイントを使っており安全側線はない。従って、上下列車の同時進入はできない。その分、かつて通票閉塞だった時代でも駅は信号扱いだけで、ポイント扱いの必要はなかった。

(つづく)

2012/03/19

心臓の定期検診に行ってきました

2012年3月19日

心臓の定期検診に行ってきました。今日の検診は、もっぱらワーファリンの効き目を確認するものなので、特に大きな検査はありません。PT-INR=2.00と、ワーファリンの量はちょうど良いところです。そのほかの血液検査、赤血球、白血球、血小板等の量は、すべて正常値です。なお血小板量は、19万8千でした。心電図も撮りましたが、特に問題なしです。最も循環器の検診でかかっている場合は、小生の房室ブロックなど、「問題なし」の範囲ですが(^_^;。次回(6月)の検診で心エコーを撮りますので、逆流度等に変化があれば、その時に判ります。

今日は次の肝臓の検査用の血液まで取ったので、試験管9本も取られました。また明日が休みなので、あちこち混んでいました。

心臓については、このところ身体が軽いです。階段を3階まで一気に上がっても、息切れしません。多分心臓に何らかの変化が出ているのだと思いますので、次回の心エコーでそれが見えるかどうか、です。

待合室の噂話で、肝臓科の部長先生がずいぶん痩せた、という話を耳にしました。いろいろな講演で「太りすぎは良くない」とおっしゃっているので、自分もダイエットされたのでしょうか。

2012/03/18

A列車で行こう(2)

20012年2月25日(つづき)

黒崎では筑豊電鉄の黒崎駅前で、3連接車を待つ。この3連接2000型は、小生が北九州にいる頃、つまり1974年頃2連で新製され、その後3連接に改造されたものだ。Img_33161a


それまで西鉄の車両だけが走っていた筑豊電鉄で、最初の筑豊電鉄保有の車両である。登場したときに記事を「鉄道ファン」に投稿し採用されたので、良く覚えている。黒崎行きと、折り返しの筑豊直方行きの、両方を撮る。2000型は登場時は黄色に赤線だったが、現在は編成毎に色が違うので、全色押さえようとすると、大変になる。Img_33201a


休日の3連接は、1時間半に1本である。それまでは駅のベンチに座って待つ。ウォークマンが役に立つが、ノイズキャンセリングヘッドホンは回りの音がほとんど聞こえなくなるので、気は配っていないといけない。Img_33101a


目の前をJRの貨物列車が通るが、架線が入り組んでいるので写真にはならない。ベンチで筑鉄の時刻表を見ていたら、休日の3連接は1本の運用でまかなえることに気がついた。これは1時間半待っていても同じ編成しか来ないが、すでに1時間以上経ったので、待つことにする。やはり事前にじっくり計画を立て、平日朝に北九州に来るように、つまり今回とは逆回りにすべきであった。Img_33231a


熊西の、かつて西鉄折尾線との分岐があったあたりまで移動し、3連接を撮る。そこで折り返しは撮らず、さっさと熊本に移動する。また特急を使うが、今度は大分からの「ソニック」、883系の「青いソニック」だ。ソニックは折尾-博多間に停車しないので、所要時間が短い。感覚的にも、あっという間に博多に着いた。Dscn0006a


博多で駅弁を仕入れる。新幹線の構内で買ったら、カードのマークはイコカであった。新幹線博多駅は山陽新幹線の駅で、JR西日本の管轄だったのだ。ホームに上がると時間があるのに、もう「さくら」が入線している。はて?と思ったら、博多始発、鹿児島中央行きの「さくら」だった。Dscn0008a


九州内だけなので、使用車両は800系である。早速駅弁を広げるが、800系のテーブルは小さく、駅弁がはみ出してしまう。ビールは窓枠に置く。窓際で良かった。駅弁だからテーブルの上に置けたが、コンビニで弁当とサラダなどを買ったら、大変だった。以前も書いたが、どうもドーンデザインはデザイン優先で、使い勝手が悪い。Dscn0009a


やがて発車。787系の「つばめ」の時からそうだが、日、英、韓、中の4カ国語でアナウンスがある。停車駅を聞いていると、韓国語は日本語の読み通りだが、中国語は漢字の中国読みなので、さっぱり判らない。このあたりは日本人も蘇州(そしゅう)などと読んでいるから、お互い様だ。座席番号表示も4カ国語だが、中国語は簡体字ではなく、台湾で使われている繁体字だ。台湾からのお客さんが多いのだろうか。Dscn0010a


熊本に着いたら、道路が濡れている。今日は午後まで降っていたようだ。
Dscn0011a

熊本泊。
(つづく)

2012/03/17

A列車で行こう(1)

2011年12月30日

小生は北九州の八幡西区(黒崎)でしばらく暮らしたことがあるが、ずっと気になっていることがあり、一度訪問することにした。そしてカミさんと話していたら、お墓参りの話になった。カミさんの実家のお墓は毎年掃除しているのに、小生の実家のお墓は放りっぱなしで、ろくにお墓参りもしていないではないか、ということである。言われてみれば、確かにそうだ。ということで、急遽北九州経由熊本行きが決まった。小生の誕生日に引っかけ(休暇が取りやすい)土曜日(2月25日)出発、月曜日(27日)帰京で、飛行機の切符だけを押さえてしまった。三角線の「A列車で行こう」という特急が土日だけ走っているが、その運行期間が「2月26日まで」となっているので、これにも乗れる。細かい計画は何も立てていないが、飛行機の切符だけは早めに押さえておかないと、1ヶ月前だとまず無くなっている。細かいことはこれからだが、出発の前日が群馬での会議で、午後4時開始という何時に帰れるか判らないスケジュールだったので、土曜日の出発だけは遅くした。ついでに、熊本の宿も押さえた。


2012年2月5日

特急「A列車で行こう」は全車指定席である。三角線の特急が満員になることは考えにくいが、一応早めに切符を取った。しかしすでに窓側の席はなくB席、意外と混んでいる。なお黒崎から出ている筑豊電鉄に3連接車が走っているが、土日も走っていることが判った。黒崎であまり時間はないが、3連接車の時刻が公表されているので、時間を合わせることが可能だ。


2012年2月23日

出張のついでに小型の方のカメラで横浜駅の時刻表の写真を撮ろうとしたら、充電したばかりのバッテリーが上がっていた。バッテリーは半年ほど前に交換したばかり。どうやら本体に問題があるようだが、今更修理に出していては間に合わない。急遽出張帰りに新宿で途中下車し、ヨ○バシカメラの本店でニコンのクールピクスを買う。ズーム範囲の広いものを買ったら意外と図体が大きく、ケースが流用できなかった。


2012年2月24日

またまた出張のついで、会社の近くにある電気屋で、昨日買ったクールピクスのケースを買う。泥縄だ。家に帰り着いたのは、21時を過ぎていた。明日の出発を遅くしておいて、良かった。Dscn0001a

2012年2月25日(土)

東京は雨、しかも寒い。急遽スニーカーに防水スプレーをかける。今回の旅行は泥縄が多い。駅に着いたときはリュックもかなり濡れていたが、リュックには前回の旅行の時の防水スプレーの効果が、まだ残っていた。横浜で横浜線から京浜急行に乗り換え、快特で京急蒲田へ。京急蒲田についたら、駅番号が付けられているのに気がついた。京急本線は、「KK-」である。東急にも英文字二桁+数字2桁の駅番号が付けられ始めたのを見ると、関東地区の私鉄全部に及ぶようだ。Dscn0003a


京急蒲田での羽田空港行きは、1番線と4番線交互に発車するが、これが3階と1階で、しかも1階ホームが階段から遠い。1階に下りたが間に合わず、また3階まで戻ることになった。心臓に悪い。そのため余裕の2乗くらいに余裕を見ていたのが、普通の余裕になってしまった。とは言え余裕はあるので、12時少し前ではあるが、羽田空港で昼食を採ることにする。先に保安検査を済ませ、中にある店で「シラスぶっかけうどん」。なかなかいける。保安検査の時に出てきた座席シートは、予約した席と変わっていた。クラスJ右側窓側の席に変わりはないのだが、後にずれていた。Dscn0005a


新しいカメラのテスト代わりに、搭乗機を撮る。確か使用機材はB-767と思っていたのだが、止まっているのはB-777だ。使用機材が変更になったあおりで、座席が変更になったのか。搭乗、以前の席はちょうどファーストクラスとクラスJの境の壁で、その番号がない。なるほど、座席変更になるわけだ。羽田空港をタキシングするときに眺めると、以前に比べて海外の航空会社が増えたことに気がつく。羽田の国際化が徐々に進んでいるのが判る。離陸はいわゆるD滑走路から。ここは遠い。

離陸して高度を上げ、雲の上に出ると揺れが無くなる。今日は天候が悪いせいか、高度12,000mとかなり高い。JALの機内サービスが益々簡素化され、茶菓子が無くなり飲み物だけになった。福岡空港にやや遅れて着いたが、荷物を預けなかったせいで、出るのは早い。福岡市営地下鉄がSuicaで乗れるようになったので、楽だ。博多から特急を奮発し、黒崎へ。北九州-博多間を連絡する特急「きらめき」、九州新幹線開業で失業した787系が運行されていた。

(つづく)

2012/03/11

あれから1年

2012年3月11日

あの日から、1年が経ってしまいました。犠牲者のご冥福をお祈りし、今なお避難生活を続けられている方にお見舞いを申し上げます。

今回の大震災は、地震、津波に加え、福島第一原子力発電所の事故が、復興の大きな妨げになっています。しかしこの事故、各地の放射能被害をもたらした水素爆発事故は、地震と津波の後適切な処置をしていれば、防げたといわれています。ここで記事を引用したいのですが、日経BPの記事は登録制なので、引用しません。「見逃されている原発事故の本質」で日経ビジネスオンラインの記事にたどり着けますので、興味のある方は検索してみてください。

ここで気になるのが、1号機爆発事故の後です。1号機が水素爆発した後1号機には海水注入を行っていますが、なぜこの時2号機と3号機に海水注入を行わなかったのでしょうか。2号機と3号機で海水注入が行われたのは、燃料棒が露出した後、つまり手遅れになってからです。まだ水位があるうちに海水注入を行っていれば少なくとも2号機と3号機の水素爆発は避けられたはずで、そうすれば放射能の汚染地域は、今よりぐっと少なかったはずです。これは急病人がいるのに救急車を呼ばなかったことと同じで、犯罪行為です。

一気に対応せずに様子を見て対応するやり方は、旧日本軍の先の大戦での負けパターンでした。戦況が不利と判ったところで順次兵力を追加投入し、結局は現有兵力を全滅させてしまうというパターンです。危機に対する対応は、日本は先の大戦で何も学んでいないようです。この状態に神様もあきれたのか、4号機の燃料が露出しないという奇跡を演出してくれました。これは全く奇跡で、普通だったら東京も避難区域になるところでした。ヨーロッパの国々が東京から自国民を退避させたのは、今となっては当たり前の行動と言えます。

ただこういう原発事故、何で水素爆発が起こったのか、なぜ防げなかったのかを全く検証せずに、原発の再稼働が行われようとしています。小生は、20年くらいかけて原発は廃止すべきだと思っていますが、それまでは原発のうちの新しいものは動かしてもやむを得ないと考えています。しかし何も検証せず、事故時のマニュアルも改訂せず(一説には、燃料棒が露出した後でないと海水を注入してはいけない、と定められているとか)再稼働することには、反対です。

今の政府の対応を見ていると、原発のある地元が政府のやり方に納得するわけはなく、原発は全部止まるでしょう。今年の夏もいろいろな我慢を強いられる夏になりそうですが、それ以上に、日本の製造業がどんどん海外に出て行くことを心配しています。

2012/03/04

プラハ・フィル+ラデク・バボラーク

2012年3月4日

ラデク・バボラーク氏のホルンを聞きたくて一度コンサートのチケットを買ったのですが、義母の葬儀その他で流れてしまいました。やっと念願が叶い、みなとみらいホールで聞いてきました。プラハ・フィルの公演で、モーツァルトのホルン協奏曲、1番と3番です。席は3階の正面最前列、怖いけど、音は良い席です。

小生はこの1番が好きで、自分の葬式に流してもらいたいと思っているくらいです。ほとんど天国へ行った状態なので、番号は1番でも後期の作曲ではないかと思っていましたが、最近の研究ではホルン協奏曲の中では最後の作品とされているそうです。

さて、バボラーク氏のホルンですが、高音から低音まで、そしてフォルテからピアノまで、正確な音程できれいな音が出る、と言うことにつきると思います。単純と言えば単純ですが、実はものすごく難しいことです。それをあっさりとやってのけるから、ものすごいです。安心してモーツァルトの世界に浸れます。アンコールを2曲、やってくれました。

CDを買って帰ろうと思ったのですが、肝心の1番が入ったCDはなく、今日は止めました。会場で買えばサインがもらえたんですけど(^_^;。

2012/03/03

1969年

2012年3月3日

先日、「ピンク・マルティニ+由紀さおり「1969」」なる記事を書きましたが、1969年は小生にとっても特別な年でした。

時代的には、「栄光の60年代」の最後の年、高度成長期でした。みんなミニスカートになったのが1968年、東大紛争も1968年です。この頃のアルバムを見ると、女性のスカート丈が1967年と1968年ではまるで違います。そして国鉄は1968年10月に「よん・さん・とお」のダイヤ大改正を行い、全国に特急が走り始めました。690226021a


小生は1967年に上京し、1年間日吉へ、1968年から専門課程で小金井(武蔵小金井)へ通い始めました。1968年は引っ越さず、目蒲線から渋谷-井の頭線-府中経由で、遠距離通学でした。1969年2月に、友人のIと一緒に東北から道南へ写真撮影旅行に行きました。その旅行中の青函連絡船の中で、小生は20歳の誕生日を迎えています。写真はその時の、花輪線の86三重連です。

4月に遠距離通学に耐えかねて京王線の千歳烏山へ引っ越し、府中経由で通い始めました。1969年は一番乗っていた頃で、受ける試験のほとんどでAを取っていた頃です。つきあっている女の子もいて(それが今のカミさんですが(^_^;)、充実していましたね。多田武彦の「雪明かりの路」の録音をしたのも、1969年です。文化祭にの展示に、大きなナハネ20の模型を作りましたっけ。この模型を作るために、東京駅前にあった国鉄本社に資料をもらいに行っています。もう一つの写真は、その文化祭展示のナハネ20の模型です。1969b

そんな栄光の時代も長く続くわけはなく、時代は「激動の70年代」に入ります。70年代は、小生にとっては母親の死というとんでもない激動から始まりました。

1970年1月、まだ20歳の時でした。

「1969」の由紀さおりさんが歌う「パフ」を聞いていると、なぜか涙が出てきます。

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