« Windows-7とプリンタ | トップページ | 津山の機関庫(1) »

2011/12/10

オーストリア皇太子の日本日記

2011年12月10日

フランツ・フェルディナンド著「オーストリア皇太子の日本日記」(2005年講談社文庫)、とりあえず最初の長崎から熊本までを読み終わりました。非常に観察が細かく、面白いですね。少し長崎-熊本間の解説をします。

「八重山は南進し、肥前半島の南端、野母先をぐるりと半周し、東に向かった。左舷に島原半島、右舷に天草の上島を見つつ、九州本島の小港、三角を目指した。艦は約三時間激しく横揺れしたのち、濃緑色の島々を抜け、波静かな海をすすんだ。」

長崎から三角に向かうとき、一旦外洋に出ます。そこは五島灘で、それから野母崎を回ると天草灘。ともかく、波の荒いところです。鬼池-口之津間の早崎瀬戸を抜け島原湾に入ると、ずいぶん穏やかになってきます。

「三角の手前まで来ると、ふたたび礼砲が鳴り渡った。八重山を追尾してきた巡洋艦高千穂が長崎に帰港するからだ。」

三角港には、中神島の脇の狭い水路(チヌ釣りの名所として有名)を通って入りますが、帝国海軍は狭い港内での操船を嫌い、第二次大戦中も重巡以上は三角港の中に入れなかったそうです。この時代(明治26年)の三角港は三角西港で大型船の接岸はできなかったので、なおさらでしょう。

「出迎えのランチには、かなりの人びとが乗り込んでいた。」

前述の通り、大型船は接岸できず沖止めで、港とはランチで行き来していました。

「三角の街は旗ですっかり飾りつくされ、」

三角西港の開港は明治20年で、この記事はその6年後です。三角西港はきちんと区画整理された街で、官公庁など多くの建物が建ち並んでいました。その後明治32年に三角線が開通して港の機能は三角東港に移りますので、三角西港の栄光はわずか12年のことになります。

「熊本までの約四十二キロ、皇室さしまわしの人力車で移動した。」

三角線の開通はこの6年後です。

「焼けつくような暑さのもと、道ははげしく起伏し、」

熊本の8月4日です。さぞ暑かったことでしょう。

「熊本をめざし三角を出てすぐ、海岸沿いに険しい登り道を進んだ。」

熊本-三角間の道路は三角築港の時(正確に言うと、築港工事の時)に建設されました。当時としては画期的な幅の広い道路で、九州鉄道三角線の工事では、その道路の一部をを鉄道用地に転用したほどです。しかし網田から三角までは切り立った崖にへばりつくように進んでおり、建設時には熊本刑務所の囚人も動員された難工事だったそうです。これが全区間片側一車線になったのは、昭和39年頃のことです。三角線はこの区間を避け、ここから山越えして宇土半島の南岸に出ています。なお道路は山越えではなく海岸にへばりついた道なのですが、途中意外に高度が上がっています。

「その後、視界が開け、小さな川をわたると、いかにも心やすまるような平野に出た。」

網田(おうだ=当時の網田村)です。現在の三角線も国道57号線も、平野の中を一直線に進みます。

「そして魅力的な村に来ると、絵のような広場で十五分の小憩をとった。」

住吉の粟島神社かとも思ったのですが、三角-熊本間五時間半に2回の休憩だと、三角からの距離がありすぎます。一回目の休憩は網田近傍のはずで、現在の三角線で言うと、網田-肥後長浜間のどこかでしょう。おそらく現在の57号線から外れ、少し山沿いに寄ったあたりの集落と思われます。

「さらに二時間ほど走ると、ふたたび小憩になった。こんどの休憩は、黄金の装飾がされた襖のある小家屋でとられた。蓮の花陰に豪華な椅子がおかれ、」

今度の休憩は、宇土でしょう。沿線でこれだけの屋敷があるところは、他に考えられません。宇土は関ヶ原の合戦までは小西行長の宇土城の城下町で、古くからきちんと街作りされ、水道などの整備された街です。街の中心部が国鉄の宇土駅からも、また国道3号線からも離れているので、意外と知られていません。

このあと、人力車は熊本市内に入ります。第六師団がすでにあったとか、村田銃が新しい連発銃(三八式歩兵銃か?)にもうすぐ置き換わるとか、いろいろ興味深い記述が続きますが、解説はここまでにします。先にも書きましたが、三角西港の栄光はわずか12年のことで、この本はその栄光の時代のちょうど真ん中を記録した貴重なものです。

« Windows-7とプリンタ | トップページ | 津山の機関庫(1) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

お読みになりましたか。

公式行事目白押しのスケジュールのなかで、大公ご本人だけが記録したり記述したわけではなかろうとは思いますが、「坂の上の雲」とも重なるものがあるし、なかなか興味をそそります。
当時の熊本の騎兵連隊はハンガリーの馬だったようですが、ハプスブルク家とくればリピツァーナ種ですが、これは王宮の乗馬学校の馬なので、たぶん騎兵には使っていなかったと思われ、では、何だったのだろうかと探りたくなります。
大公が日本から持ち帰った品々の一部は、現在でも、ウィーンの美術館や博物館で見ることができるようなので、あらためて見てみたいと思っています。

楠の末裔さん、ありがとうございます。
まだ熊本までですけど、地名の正確さにびっくりしました。おそらく帰国後の調査、校正が入ったんでしょうね。大公が日本から持ち帰った品々にも、興味がありますね。小生はちょっとウィーンまでは行けませんが。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/97180/53450027

この記事へのトラックバック一覧です: オーストリア皇太子の日本日記:

« Windows-7とプリンタ | トップページ | 津山の機関庫(1) »

フォト
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック

無料ブログはココログ