« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2011/12/31

スマートフォンは止めた

2011年12月31日

小生は住所録とスケジュールの管理には、未だに「リナザウ」を使っています。一度W-ZERO3(Esも)を使ったこともあったのですが、どうにも使いづらく、結局ザウルスに戻りました。このザウルス、機械自体はまだしっかりしているのですが、パソコンのバックアップソフト(OUTLOOK連携)がWindows-XPまでにしか対応していないため、あと2年ちょっとで後継を探さなければいけなくなってきています。

W-ZERO3が使いづらかったのは、1ヶ月のカレンダー上にスケジュールが出てこないことです。出るには出るのですが、「スケジュールがある」という印が出るだけです。この点ザウルスは7文字×2行出ますので、大抵のスケジュールは詳細を開かずに判ります。

アンドロイドのスマートフォンも、デフォルトはW-ZERO3と同じなのですが、そこに文字を出すソフトがアンドロイドマーケットにあると聞きました。そうなれば、かなり使いやすくなります。アンドロイドのスマートフォンも、画面がずいぶん大きくなってきて、カレンダーなどを出しても見やすくなりました。
と言うことで、平日に空いている家電量販店に行き、詳しい話を聞いてきました。要は、いくら金がかかるか、です。ぱっと見たところ、電話機の価格は全体的にAUの方がDocomoより1万円から2万円高いです。ただAUには「実質負担金ゼロ」というのもあり、そのからくりを聞いてきました。電話機を2年間の月割りにすると大体2千円から3千円で、その価格を月々の使用料から差し引くのだそうです。「使用料がそれより安くなることはないのですね」と聞いたところ、スマートフォンは勝手に通信するのでパケットはすぐ上限まで行くのでパケット定額にした方が良く、パケット定額が約5500円、それに電話の分などを入れると、約7000円くらいの使用料が月々発生するそうです。うーむ、高い。

小生の現在の携帯電話の使用料が月々2000円強、それがいきなり7000円で、しかもスマートフォンは信頼性に欠けるので2台目として持った方が良いとなると、付きの電話代が1万円近くになります。これでは、スマートフォンの機能をフル活用して何かやろうとするのならともかく、ザウルスの後継としてはランニングコストの面から失格です。

そこで思い立ったのが、「電話機能のないスマートフォンがあればいい。」通信は無線LANだけで、幸い小生の光通信のハブは無線LANの親機にもなるので、新規契約の必要はありません。そういうのがないかと思って探したら、なんとありました。あの評判の悪かった、シャープの「ガラパゴス」です。しかし評判が悪すぎ、5in.モデルは販売終了になっていました。フルキー付きもあったのに。現在あるのは7in.のタッチパネルのみのモデルです。7in.はちょっと大きすぎます。

結論として、XPのサポートぎりぎりまでこのリナザウを使い続けることにしました。そうこうしているうちに、スケジュール表など持ち歩かなくても良いような生活になるでしょう。

さて皆様、本年もいろいろお世話になりました。ここで毎年恒例の干支交代の写真が出てくるところなのですが。龍もしくはそれに類するものが無く、今年はあきらめました。ドラ息子のところには、「エルマーと竜」の竜のぬいぐるみがあるのですが。蛇もないので、しばらく干支交代はお休みしそうです。

それでは皆様、良いお年をお迎えください。

2011/12/30

暮れなのに、本が増える

2011年12月30日

人生そろそろ終い支度の時期で、本も減らそうと思っているにはいるのですが、相変わらず増え続けています。その中で最近読んだ本は、

○小沢征爾×村上春樹「小沢征爾さんと、音楽について話をする」:所々立ち止まってじっくり考えなければいけないところもあり、一気に読むというわけではありませんでしたが、面白かったです。いろんな人が出てくるので、特にオーケストラ曲が好きな人には、たまらない本です。

○海堂尊「極北ラプソディ」:海堂尊の本は、最近は文庫化を待ってから買うようにしているのですが、「モルフェウスの領域」に続き、ハードカバーを買ってしまいました。「極北クレイマー」の続編で、ジェネラル・ルージュこと速水医師が大活躍します。

○海堂尊「マドンナ・ヴェルデ」:テレビ化がされたので文庫化を待っていたのに、文庫が全く出てこない本です。それではと古本屋に行っても、なかなかありませんでした。五反田のゆうぽうとに行ったとき、時間が少し早かったので立ち寄った近くの○ック・オフで見つけ、即購入しました。物語の中の時間では、「マドンナ・ヴェルデ」の後に「医学のたまご」が続くので、出版順は逆になりますが、「マドンナ・ヴェルデ」の後に「医学のたまご」を読むと、また面白いです。

○秋月達郎「海の翼」:トルコ軍艦エルトゥールル号の救難と、その100年後のイラン・イラク戦争時のトルコ航空機による日本人救出の話です。銀行に行って手続きに時間がかかると言われ、トイレに行こうと駅ビルに入り、そこの本屋で見つけ、一気に読みました。エルトゥールル号の話は漠然と知っていましたが、イラン・イラク戦争時のトルコ航空機の話は、恥ずかしながら、よく知りませんでした。1985年3月のことで、小生は東京に出てきて1年弱、ちょうど引っ越しの準備をしていた頃です。この5ヶ月後に御巣鷹山の日航ジャンボ機の墜落事故が起こっていますので、世間の関心も一気にそちらに行ってしまったようです。なおイラン・イラク戦争時に日本政府が日航に救援機の派遣を要請したものの、日航の組合の抵抗により派遣できなかったとこの本には書いてありますが、どうやらこれは事実のようです。ナショナル・フラッグ・キャリアとしての誇りと自覚を忘れた行動と、言わざるを得ません。

○萩尾望都「思い出を切りぬくとき」:雑誌(鉄道ファン)を買いに入った本屋で、売れ残りのように1冊あるのを見つけ、その時は買わずに帰ったものの、翌日どうしても気になってわざわざ買いに行きました。2009年11月初版、2011年5月の第5刷発行ですから、売れ残りではなく、売れ行きの良い本なのでしょう。萩尾望都氏は昭和24年生まれと見て、納得。この世代は、変人が多いです(笑)。九州(福岡県大牟田市)生まれとは、知りませんでした。萩尾望都が本名というのも。

○津本陽「虎の夢見し」:加藤清正伝です。「きよまさ」ではなく「せいしょうこう」と呼ぶ土地に育った身としては、放ってはおけません。といいながら、今日買ってきました。まだ読んでいません。どこかでまた本の整理をやらなければ。

2011/12/25

踏切について

2011年12月25日

鉄道と道路が交わる踏切は、交通量の多いところでは現在はほとんどが遮断機のある第1種踏切、それも自動遮断機付きになっています。この自動遮断機、警報機もそうですが、停電の場合には非常用のバッテリーで遮断機が下りるようになっています。停電になると軌道回路が動作不能になり、列車が接近しているかどうか判らなくなるため安全のために踏切を閉鎖するものですが、この考え方は時代遅れであり、最近はその弊害が目立ってきました。

一つは計画停電の時で、JR東は自社の発電所から電源を供給しているためほとんどの区間で計画停電とは無関係だったのですが、一部踏切の電源を東京電力から引いているところがあり、こういうところでは計画停電の時間中踏切が開かなくなるため踏切の動作を止めてしまい、頻繁に動作停止/復旧の操作を行えないため、計画停電の実施期間中ずっと運休になってしまいました。相模線がその例です。

また大震災で津波の被害を受けた地域では、地震に伴う停電で踏切が閉鎖し、津波の避難を妨げた例が報告されています。犠牲になられた方の中には、踏切が開いていたら助かった方もいらっしゃるのではないでしょうか。

現在は踏切遮断機が降りているときは踏切を通ってはいけないことになっていますが、これを大災害時には通っても良いように例外規定を設けようかという検討がなされている、という報道(NHKニュース)もありましたが、ここはもっと発想を変えるべきだと思っています。

現在、踏切は列車絶対優先ですが(一部例外もありますが)、これは自動車がまだ少なかった時代の発想です。この時代は、人は踏切ではないところを平気で歩いていました。だから踏切遮断機が停電で閉鎖状態になっても、弊害は起きなかったのです。現在は踏切は通過台数から見れば、自動車の方が圧倒的に多いです。こういう時代は、通常時はともかく、異常時は列車の方が少し譲るべきでしょう。

そこで、下記の踏切改造案(法規改正も含め)を提案します。
まず自動信号機の区間では、踏切を停電時は遮断機は開放となるようにします。警報機も鳴らしません。そして列車側の対策ですが、踏切の電源を、信号機の電源と共通にします。信号機が消灯すると列車は無条件で停止ですので、停電時は列車が来ることはありません。別の電源で信号機の電源をまかなう場合は、同時に踏切の電源も生きるので、なんの問題もありません。
自動信号でない電化区間でも、中小私鉄などがそうですが、走行用の電源と踏切の電源を同一にすれば、同じ事ができます。

自動信号機でない場合、これは非電化の場合がほとんどで、停電になっても関係なしに列車は走行できます。特に走行中に停電になっても、気動車は停電にすら気がつかずに走れます。そこでこういう区間の踏切は、同様に停電時は遮断機は開放となるようにしますが、踏切の道路側には「停電のため動作停止」の表示を付けるとともに、列車側に停電表示を付けます。バッテリーでも長時間持つように、赤のLEDで×印か何かを出せばいいでしょう。そして列車には、この×印を見たら踏切は徐行通過を義務づけます。列車は遅れますが、短時間の停電だったら影響はさほどではなく、長時間の停電だったら少なくとも異常事態ですので、多少の遅れがどうのこうの言える段階ではないでしょう。

自動信号機ではないローカル線の場合、踏切に対する設備投資が増えるのが難点です。ただ自動信号機の区間の場合は、必要な区間だけの電源系統の引き直しと踏切ソフトの変更だけでできますので、比較的簡単にできます。

いかがでしょう、この提案。

2011/12/24

クリスマス三昧

2011年12月24日

キリスト教徒の方には、申し訳ないタイトルですが(^_^;。

昨日(23日)は、松山バレエ団の「くるみ割り人形」を見に行きました。1年おきですが、クリスマス恒例です。場所は五反田のゆうぽうと。ロビーにはツリーが飾られクリスマスの雰囲気なのですが、壁に日本の復興を願った声明文(と言うより、檄文?)が張り出してありました。やはり今年は特別な年ですが、広島出身の森下さんは、原発の放射能被害に対して、また特別な思いがあるのかもしれません。考えて見れば、我らの世代が生まれたのは、原爆投下からまだ3,4年しか経っていない時だったんですね。

「くるみ割り人形」は、毎年少しずつ演出(振り付けも)変わります。今年のクララは、少し積極的です。少女のクララと、魔法の(夢の?)世界の大人びたクララを同じ踊り手が演じるのは松山バレエ団だけのようですが、これは森下洋子さんあってのことでしょう。62歳になっても、可憐な少女役ができるのですから。清水哲太郎さんと息のぴったりあったグラン・パ・ドゥ・ドゥは、見応えがありました。演奏に関しては、同じ河合尚市氏指揮の東京ニューフィルハーモニックで、すばらしかったのですが、グラン・パ・ドゥ・ドゥの部分はトランペットを表に出した一昨年の演奏の方が好きです。

現実の世界に戻って王子がクララのもとから去っていくシーン、王子はまっすぐ前を向いたまま後に下がり、そのまますーっと後ろ向きで階段を上がって、消えていきました。多分視界に入る大道具の位置で階段の位置を正確につかんでいるのでしょうが、63歳、すごいです。

アンコールは毎年恒例のクリスマスメドレー。これも毎年少しずつ趣向が変わり、今年は途中に森下洋子さんと清水哲太郎さん二人だけの踊りが入りました。なにやら大サービスのアンコールでした。いつもだと「Merry Christmas and a Happy New Year!」と書いてあるところが今年は、「Happiness for all People Everywhere.」で、やはり今年はいつもの年と違うということを感じさせられました。

今日(24日)はみなとみらいホールで佐渡裕氏指揮の「第九」。みなとみらいホールなら何とか切符が手に入ります。会場は超満員。それがいつもはいつまでもざわついているホールが、今日はオーケストラが入ってくる前にしーんとしています。そしてそのしーんとした状態で、拍手もなく合唱団とオーケストラが入場、まるで何かの追悼演奏会のようです。確かにその意味もあるのかもしれませんが、ちょっと異様な雰囲気でした。さすがにコンマス登場の時は拍手。さらに大拍手で佐渡裕氏登場、譜面台がありその上に楽譜が置いてあるのですが、今日はそれを開かず、暗譜です。「暗譜してて良いことは、演奏者とアイコンタクトが取れ、特にオペラの場合は歌手を見ながら指揮して目と目で了解が取れる。」ということを小沢征爾氏が言っていますが(小沢征爾、村上春樹「小沢征爾さんと、音楽について話をする」)、第九のように合唱有りソリスト有りの場合は、暗譜の方が断然有利でしょう。

第1楽章、「えっ、東京フィルってこんなに良く鳴るオーケストラだった?」というのが第一印象です。佐渡裕氏は元々オーケストラを鳴らすのがうまい指揮者でしたが、益々うまくなったようです。2楽章、3楽章と、アンサンブルも見事です。第4楽章の後半、合唱が入る前のバリトンソロ、「おっ、この人すごい!」と思った歌手は、甲斐栄次郎さん、ウイーン国立歌劇場専属ソリストです。同じくがんばっていたテノールは、西村悟さん、今年の日本音楽コンクールの第一位です。佐渡さんは、コーラス前半の終わりの「Gott.」の部分を思い切り引き延ばします。ここをフォルテのまますぱっと切ると、わんと会場からの反響が返ってくるのですが、すぱっと切れたもののみなとみらいホールは返りが今ひとつでした。合唱(東京オペラシンガーズ)も後になるほど調子が上がり、後半に出てくる「ミミファソソファミレ(移動ド表記)」の旋律の部分は、実にダイナミックでした。

すごいものを聞いたという感じでした。これが佐渡マジックでしょう。終演後はずーっと静かだった客席がブラボーの嵐になりました。オーケストラが引き上げ、合唱団が引き上げ始める時、帰り支度中のお客さんから大拍手。合唱、すばらしかったです。

2011/12/23

ワーファリン

2011年12月23日

去年大腸の内視鏡検査を初めてやったところポリープが見つかり、今年は取ってもらおうと思い、検査を申し込みました。ところがこの医院の評判が良いのかお客さん(?)が増え、11月に申し込んだのに検査は年明けになりました。先日、その最終打ち合わせに行ってきました。打ち合わせと言うより、誓約書にサインをするのが主目的のようですが。

去年内視鏡検査をやったとき、小生はワーファリンを飲んでいるため、普通だったらその場で取れるポリープが取れなかったものです。そのため今回は、事前にワーファリンを中止します。中止期間ですが、循環器科医に言わせると「3日間にしてほしい。」となり、検査をする方の消化器科医だと「せめて一中間は止めてほしい。」となります。そこで先生、「中を取って、5日間にします。」具体的に言うと検査は1月11日で、1月6日から止めることになりました。そしてポリープは、「通常だと5mmから10mmまでを取る。」のだそうですが、今回はわざわざワーファリンを止めることもあるので、小さくても取れるものは取ってもらうことにしました。なお10mm以上だと、本格的な手術になるそうです。

ワーファリンの再開日は、どのくらい取るかによって決まるので、検査後決めることになりました。取らない場合だと翌日再開ですが、取った場合はその大きさにより、出血が止まる2,3日待ってから始めた方が良いそうです。例によって、下剤と腸をきれいにする薬(2lの水に溶かして飲むやつ)をもらってきました。1月10日の食事制限から、始まります。

それに関連して、ワーファリンをもらうときに付いている説明書きを見たら、「アルコールを含む飲料はひかえてください」という注意書きが追加されていました。これは初めて見ました。そこでネットで製薬メーカーのホームページから調べたら、
1)飲み過ぎないこと。
2)酔っ払った状態で飲まないこと。
3)酒を飲むことが判っているときは、ワーファリンは朝飲むこと。
だそうです。小生はワーファリンは朝だし(飲む時刻を一定にするには、朝より昼の方が良いそうですが)、酒はウイスキーをメジャースプーンで計って飲んでいるので、今のところ問題ないでしょう。食事も含め、ペースを変えないのが一番良いようです。

Img_28811a

追伸、と言うより、19日付の記事の、miyaさんのコメントに対する返事の続きです。コメント欄では、写真が付けられないので。常願寺川の鉄橋を渡る、富山地方鉄道モハ16010型(元西武5000系)です。RAILWAYS2に、同じ場所の映像が出てきます。

2011/12/19

今年最後の通院は、循環器

2011年12月19日

循環器の検診に行ってきました。血液検査の結果は、赤血球数:522万、白血球数:6100、ヘモグロビン:15.8g、血小板数:20.1万と、異常ありません。PT-INRが2.15とやや高めですが、このくらいは振れる範囲でしょう。朝着いてすぐに胸のX線写真も撮ったのですが、特に心臓に変化はなく、さらっと通り過ぎました。このところ心臓は小康状態というか、やや中康状態なので、先生もさらっと流してしまいます。数年前、いつ外科に行こうかと言っていたのが、嘘みたいです。

診察の後待合室でもらった資料の整理をしていたら、どうも数値が変です。やたらLマークが付いているし、これはどう見ても貧血です。ひょいと上を見たら、違う名前が書いてありました。慌てて診察室にとって返し、次の人の診察に入っていましたが先生が立った気配の時にドアを開けました。先生、「ちょうど良かった。今呼びにやろうと思っていたところだった。」そして看護師さんの方を振り向き、「今済んだからもう良いよ。」その場でプリント用紙を交換してきました。この先生、予約順序と関係なく、検査結果が上がった順番に呼びますから、机の上は乱雑です。まあこういうこともあるでしょう。

自動支払機で会計を済ませて予約一覧を見たら、次の循環器の予約が載っていません。再度会計窓口に戻って確認したところ、再印刷をかけたら出てきたそうです。サーバーの更新タイミングで、ちょっと先生の入力が遅れると、こうなるようです。そう言えばいつもは診察が終わって一服するのに、今日は午前中の会議の最後に出るため、会計窓口に直行しました。いろいろあります。

ぼけ始めると、病院にかかるのも大変です。

2011/12/18

津山の機関庫(2)

2011年10月23日(日)

昨日は雷雨だったが、今朝は薄曇り、道路は濡れている。ホテルの朝食の米は、岡山産と、熊本産の「森の熊さん」。こんなブランドの米があることは、知らなかった。津山線の朝の快速が指定列車になっている。これを外すと、間に合わない。Dscf4519a


車両はキハ47の2連、かつての急行「つやま」には、デッキ付きのキハ48基本番台が使われていたが、急行廃止とともにいなくなったようだ。JR西日本はトイレ付きの車両を2両連結するので、助かる。現在のタンク式のトイレは、結構故障しやすいのだ。
Dscf4520a

津山の駅に着き、駅裏の機関庫に向かう。今日はお祭りらしく、準備中の御輿の横を通る。受付で名前を申告、今回はかなり前に申し込んだが、どうやら当日参加でも問題なさそうだ。時間が来て構内に入る。津山機関区には、かつてのC11とC58という機関車配置からすると、分不相応な立派な扇形庫がある。Img_33091a


現在でも荒屋新町や豊後森に扇形庫が残っているので、丙線と扇形庫という組み合わせ自体は珍しいものではなかったようだが、津山は線数が多く、しかも転車台が稼働する。Img_32871a


残念ながら庫の入り口にはロープが張られ、機関車の横に行くことはできない。DE10の運転台の横に階段が付けられているので、中まで公開する日があるのだろう。今日の案内の職員は退職されたOBのようで、中まで公開する日は、もっと動員をかけるのだろう。Img_32771a


それでも正面には触れるくらいに接近でき、解説もしてあるので面白い。DE50が故障をきっかけに休車になったという話は、いろいろ想像をかき立てる。DE50のDMP81ZはDD51などで信頼のあるDML61Zの12気筒を16気筒にしたものだが、この故障が気筒を増やしたことによるクランクシャフトの強度不足なら、エンジンの再設計が必要になる。四式戦闘機「疾風」の故障多発の原因と同じだ。またトルコンはDE10の1350PSから一気に2000PSまで増やしていImg_32801a


るので、こちらの故障の可能性もある。DD51はパワーの割に粘着力が少なく、現在でも山越えでは苦労している。大震災の後の磐越西線経由の1000t救援列車が重連でも峠を越えられず、DE10の後補機を付けた。あれがDE50の重連だったら、楽に超えられたのに、と思う。もう少しDE50の開発に力を入れてもらいたかった。Img_3299a


除雪機関車のDD15は軸重が重く、入線制限があるのでDE15が開発された。ところが除雪時にはこの軸重の重さが効果を発揮し、脱線しにくかったというのだから面白い。Img_32821a


場所柄気動車はそろっている。キハ58の連結線を見たら、細いケーブル(KE66)には「放送」と書いてある。今までこの細い線は、電磁ブレーキの制御線だと思っていた。すると電磁ブレーキの制御線は、どこだ?係員に聞いてみたところ、「さて?」とのこと。キハ40系だと連結器の下にあるとのことだが、キハ58は元々の制御線(KE53)にも余裕はないし、不明とのことであった。Img_32971a


この電磁ブレーキ、元々12両以上の長編成用で、11両までは不要である。そのため長編成が無くなったJR化以降は取り外されたのではないかとその時は結論を出した。そして帰宅後写真を眺めていたら、キハ58にKE67が外されたような跡を見つけた。ひょっとしたら、これかもしれない。Dscf4525a


機関庫は元々蒸気機関車用なので、煙出しの穴があるはずである。よく見たら雨漏り防止のために、ふさがれていた。これだけ記念物的な車両を保管するのなら、天井に穴が開いていたらやっぱりまずいだろう。Dscf4526a


転車台の稼働実演があった。何も乗せずに一回転するだけだが、これはこれで面白い。この転車台はまだ現役とのことで、津山運転区のキハが転向するときにはこれを使うそうだ。「もうすぐあるな、平日だけど。」と係員は言っていた。Dscf4529a


展示を見終わり、今度は各停で岡山へ。津山線の沿線には、変な駅がたくさんある。なお沿線の木が車体によく当たる。完全に建築限界のオーバーだが、木の手入れにまで手が回っていないのであろう。最近の車両は窓をあまり開けないので、乗客から苦情が来ないのだろうが。

最初は宇野線に回って貨物列車を撮影する予定だったが、結構疲れたので、昼食をゆっくり食べて早めに帰京した。岡山は近くにあちこち見所が多い。

(完)

2011/12/17

津山の機関庫(1)

9月に岡山に行ったとき、津山の機関庫の一般公開の案内をもらった。今年の最終が、10月23日(日)。このチラシを見たカミさんが、「行ってきたら?いけるうちに。」確かに今年は行けるが、来年は行けるかもしれないが、行けないかもしれない。と言うことで携帯から参加を申し込み、行くことにした。住所を聞かれて「東京都」と言ったら、先方はびっくりしていたが。

2011年10月22日(土)

明け方強い雨だったが、出発する頃には上がる。津山に朝着くにはどうしても一泊しなければいけないので、名古屋の撮影を少し入れた。結局切符は前回と同じで、今回は津山往復になる。名古屋は暑そうで津山は気温が低そうだったので、昨日デパートに駆け込み、セーターを1枚買う羽目になった。まさに泥縄である。

新幹線の新横浜駅は大混雑。土曜の朝は、いつもそうだ。乗った「のぞみ」はZ-1編成、揺れない。満席である。名古屋で中央西線に乗り換え、転換クロスの213系である。213系は関東では見ない。高蔵寺で愛知環状鉄道(以下愛環線)に乗り換え。来た電車はJRからの直通で、なんと211系4連だった。Dscf4510a


9月は313系が乗り入れていたが、共通運用のようだ。愛環線内はICカードが使えず、車掌が説明していた。名古屋からICカードで乗ると、名古屋からの運賃を現金で払い、さらにJRの駅で名古屋の入場記録をキャンセルしてもらうことになる。Img_32531a


前回は高蔵寺の駅で愛環線の写真を撮ろうとして、うまくいかなかった。今回はしっかり撮ろうと思い、場所を新豊田に定めた。愛環線は路盤は複線が確保されており、単線から徐々に複線化していく方法がとられている。車両は日中は2両だが、停止目標には10両があり、ラッシュ時は長編成の列車が走っているようだ。自動車王国名古屋の、そのまた自動車の中心地豊田を通る線だが、道路が混雑し、電車通勤が増えているのであろう。Img_32581a


新豊田に着く。街が大きいのにびっくりする。松坂屋まである。東京に感覚だと、日中2両の電車が走っているところは閑散としているだろうという思い込みがあるが、日中の交通主体は自動車なのだ。Img_32681a

愛環線は新しいだけあってほとんどが高架で、写真を撮ろうとするとさらに高いところから狙わなければならない。そこで事前に、新豊田から新上挙母に向かうところに良い撮影ポイントがあるという情報を仕入れていた。ここは複線の路盤の片方に線路が敷いてあるので、側面がしっかり撮れるという。ところが着いてみると、しっかり複線化されていた(;_;)。Dscf4513a


場所は切り通しになっていて、どうしても対向側の車両を狙わないと良い角度で撮れない。おかげで上りと下りを撮るために一旦山を降りて反対側の山登りをすることになり、大汗をかいてしまった。セーターどころではない。しかし同じ2000系でも、塗装の違う第1編成と多数派の第2編成以降の両方を撮ることができた。JRからの乗り入れ編成が211系だったのだけが、残念である。Img_32721a


愛環線の2000系は、車内は4人がけの固定セミクロスシート、トイレも付いている。ただし窓は開かない。さすがに場所柄、日車製。JR東は停電時の対応のため209系は窓が開くように改造し、以降の車両も通勤車はすべて窓が開くが、混雑がさほど激しくないのか、九州にも窓の開かない車両は多い。Dscf4515a


名古屋に向かう途中勝川で降り、今度は時間を合わせて、城北線の勝川進入を撮る。しかし城北線はなんのために造ったのか、判らない路線だ。JRの勝川駅とつなげば、乗客は増えるだろうに。

岡山までの「のぞみ」は、最後尾の16号車だった。揺れるかと思ったが、全く揺れない。前回の岡山からの帰りは、同じN700系で結構揺れた。いったい何のせいだ?岡山に着いてホテルまで歩いているところで、雷を伴ったにわか雨になる。何とか傘を差さずにホテルに駆け込んだ。

岡山泊。

(つづく)

2011/12/10

オーストリア皇太子の日本日記

2011年12月10日

フランツ・フェルディナンド著「オーストリア皇太子の日本日記」(2005年講談社文庫)、とりあえず最初の長崎から熊本までを読み終わりました。非常に観察が細かく、面白いですね。少し長崎-熊本間の解説をします。

「八重山は南進し、肥前半島の南端、野母先をぐるりと半周し、東に向かった。左舷に島原半島、右舷に天草の上島を見つつ、九州本島の小港、三角を目指した。艦は約三時間激しく横揺れしたのち、濃緑色の島々を抜け、波静かな海をすすんだ。」

長崎から三角に向かうとき、一旦外洋に出ます。そこは五島灘で、それから野母崎を回ると天草灘。ともかく、波の荒いところです。鬼池-口之津間の早崎瀬戸を抜け島原湾に入ると、ずいぶん穏やかになってきます。

「三角の手前まで来ると、ふたたび礼砲が鳴り渡った。八重山を追尾してきた巡洋艦高千穂が長崎に帰港するからだ。」

三角港には、中神島の脇の狭い水路(チヌ釣りの名所として有名)を通って入りますが、帝国海軍は狭い港内での操船を嫌い、第二次大戦中も重巡以上は三角港の中に入れなかったそうです。この時代(明治26年)の三角港は三角西港で大型船の接岸はできなかったので、なおさらでしょう。

「出迎えのランチには、かなりの人びとが乗り込んでいた。」

前述の通り、大型船は接岸できず沖止めで、港とはランチで行き来していました。

「三角の街は旗ですっかり飾りつくされ、」

三角西港の開港は明治20年で、この記事はその6年後です。三角西港はきちんと区画整理された街で、官公庁など多くの建物が建ち並んでいました。その後明治32年に三角線が開通して港の機能は三角東港に移りますので、三角西港の栄光はわずか12年のことになります。

「熊本までの約四十二キロ、皇室さしまわしの人力車で移動した。」

三角線の開通はこの6年後です。

「焼けつくような暑さのもと、道ははげしく起伏し、」

熊本の8月4日です。さぞ暑かったことでしょう。

「熊本をめざし三角を出てすぐ、海岸沿いに険しい登り道を進んだ。」

熊本-三角間の道路は三角築港の時(正確に言うと、築港工事の時)に建設されました。当時としては画期的な幅の広い道路で、九州鉄道三角線の工事では、その道路の一部をを鉄道用地に転用したほどです。しかし網田から三角までは切り立った崖にへばりつくように進んでおり、建設時には熊本刑務所の囚人も動員された難工事だったそうです。これが全区間片側一車線になったのは、昭和39年頃のことです。三角線はこの区間を避け、ここから山越えして宇土半島の南岸に出ています。なお道路は山越えではなく海岸にへばりついた道なのですが、途中意外に高度が上がっています。

「その後、視界が開け、小さな川をわたると、いかにも心やすまるような平野に出た。」

網田(おうだ=当時の網田村)です。現在の三角線も国道57号線も、平野の中を一直線に進みます。

「そして魅力的な村に来ると、絵のような広場で十五分の小憩をとった。」

住吉の粟島神社かとも思ったのですが、三角-熊本間五時間半に2回の休憩だと、三角からの距離がありすぎます。一回目の休憩は網田近傍のはずで、現在の三角線で言うと、網田-肥後長浜間のどこかでしょう。おそらく現在の57号線から外れ、少し山沿いに寄ったあたりの集落と思われます。

「さらに二時間ほど走ると、ふたたび小憩になった。こんどの休憩は、黄金の装飾がされた襖のある小家屋でとられた。蓮の花陰に豪華な椅子がおかれ、」

今度の休憩は、宇土でしょう。沿線でこれだけの屋敷があるところは、他に考えられません。宇土は関ヶ原の合戦までは小西行長の宇土城の城下町で、古くからきちんと街作りされ、水道などの整備された街です。街の中心部が国鉄の宇土駅からも、また国道3号線からも離れているので、意外と知られていません。

このあと、人力車は熊本市内に入ります。第六師団がすでにあったとか、村田銃が新しい連発銃(三八式歩兵銃か?)にもうすぐ置き換わるとか、いろいろ興味深い記述が続きますが、解説はここまでにします。先にも書きましたが、三角西港の栄光はわずか12年のことで、この本はその栄光の時代のちょうど真ん中を記録した貴重なものです。

2011/12/04

Windows-7とプリンタ

2011年12月4日

年賀状の季節になりました。毎年、と言ってもこの2年ですが、この季節になるとプリンタがWindows-7に対応していないことに悩まされ出します。

小生のプリンタはエプソンの安いタイプで、Windows-XPの時代に買ったものです。一昨年パソコンを新しくしたとき、プリンタドライバ自体はWindows-7に対応していたので、そのまま使っていました。ところが対応していたのは基本のドライバだけで、少し変わったことをやろうとすると、全く対応していなかったんですね。そのため写真や年賀状の縁なし印刷ができなくなり、CDラベルの印刷もできなくなりました。

そこでWindows-7をプロフェッショナルにアップグレードし、XPモードを使えるようにしました。それでやっとCDラベルや写真の縁なし印刷はできるようになったのですが、XP側にはWORDが入っていないため、相変わらず年賀状だけは縁なし印刷ができない状態でした。

今年は年賀状イラスト集の本の中にほかのソフトに貼り付けずにそのまま使えるタイプを見つけ、それを買ってきました。そしてそのCDをXPモードで起動すると、年賀状の縁なし印刷ができました。少なくともあと2年はこの手が使えます。

そんなに高いものではないんだから新しいプリンタを買えばいいじゃないか、と言われそうですが、小生は子供の残した学習机をパソコン台として使っており、プリンタを置く部分の奥行きは220mmしかありません。現在の機種(PM-G720)はそこにすっぽり収まっているのですが、エプソンのカタログを見たところ、もう220mmの奥行きに収まるプリンタはなくなっています。プリンタを買い換えるときは机をパソコンラックに変えなければいけません。そうすると机の処分が難しく(粗大ゴミ!)悩ましいところです。

2011/12/03

九州横断観光フェリー

2011年12月3日

カミさんが古いものを整理しているとき、昔のフェリーの整理券を見つけました。今はなくなってしまった、三角-島原(外港)間のフェリーです。11120301a


このフェリー、国道57号線の経路でもあるため「国道フェリー」を名乗っていましたが、「九州横断観光フェリー」とも言っていました。1960年代には、別府発長崎行き(その逆も)という九州横断の観光バス(九州国際観光)が走っていたものです。この整理券は、小生が三角にいた1980年代の、家族旅行の時のものですが、印刷されている市外局番から見ると、作った時期はもう少し前のようです。色が違うのは三角発と島原発の違いで、おそらく青が三角発でしょう。これをワイパーに挟んで乗船します。11120302a


今から30年前のものですが、この時代のものはきちんとした印刷に油性マーカーでの手書きのために、変色もせずに残っていますね。最近のものはその場で感圧紙などに印刷するため、保存性はかえって悪いです。

江戸時代、熊本の港は白川河口にある百貫港でした。明治になって国策で築港が行われた際、県が希望する百貫港ではなく、オランダ人技師ムルデルの主張により三角港が築港されました。以来三角港はずっと熊本の海の玄関口だったのですが、これまた国の工事で1990年代に熊本新港が作られて島原行きのフェリーも主力がそちらに移り、細々と残っていた三角発のフェリーもやがて廃止されました。この整理券の時代は、三角-島原間は1000t級が3隻運行し、ほぼ1時間おきに運行されていた華やかな時代でした。なお熊本新港は浅瀬を避けるために沖合に人工島として作られたため有明海の海流を阻害し、筑後川河口堰、諫早湾干拓とともに、有明海の水質を悪化させた三悪と言われています。

三角港は古く、明治期は熊本には三角港しかなかったため、明治天皇を初め著名人が三角から上陸しています。楠の末裔さんのレビュー(mixi内のため、リンクをかけていません)「オーストリア皇太子の日本日記」にはフェルディナント大公が三角に上陸したという記事があり、びっくりしました。この本を早速入手しようと思ったのですが、2005年の発行ですでに入手不可能となっているようで、古本のみが手配可能でした。一週間もすれば手元に届きます。

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

フォト
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック

無料ブログはココログ