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2011/08/12

会うことのなかった、もう一人の義兄

2011年8月12日

カミさんは二人兄妹で、兄が一人います。ところが兄は二男で、上にもう一人兄(小生にとっては義兄)がいました。
もう一人の義兄は昭和18年生まれで、二男が生まれる前の昭和21年になくなっています。新潟の実家での、事故死でした。小生もそうでしたが、カミさんも親の戦時中のことはあまり詳しく聞いていません。いろいろ断片的な話を総合してそれに多少想像を加えると、義父は戦前/戦中は現在もある大手の油圧機器メーカーで、飛行機の脚の設計をしていました。戦争に行かなかったのは身体が弱かったからだと聞いていますが、実際は軍需産業で設計をやっていたからでしょう。軍属扱いだったのかもしれません。それで終戦とともに仕事が無くなり、新潟の山の中の実家に帰っていたのでしょう。

子供が事故死するのは魔が差したほんの一瞬で、義母がたまたま障子を閉めてアイロンがけをしていたとき、はっと気がついたら庭の池にうつぶせになっていたそうです。利発な子だったそうで、生きていれば小生にとっても頼りになる兄貴だったでしょう。最も義兄が生きていたとすると、カミさんが存在していない可能性もありますが。

義兄は実家の墓地に埋葬されましたが、当時のこと故土葬に簡単な木の墓標で、そのご実家との交流もなく、現在はどこに埋葬されたかもはっきり判りません。残っているのは小さな位牌だけで、きちんとしたお墓もありません。義父が亡くなって多摩の霊園にお墓を造ったとき、義母は義兄も一緒に埋葬できないか、いろいろ動いたようですが、どうにもできませんでした。

義母が亡くなって、お墓の管理はカミさんが引き受けました。その時、小生は埋葬はできなくても、墓標に名前を刻むくらいはできないか、カミさんに聞いてみました。ただやはり義母が動いてダメだったので、難しいとカミさんも考えていました。11080603a


お墓の管理を引き継いだことを、カミさんが叔母に報告しました。この叔母はお墓のことをいろいろ心配していて、カミさんが引き受けたことを喜んでいました。そして現在ただ一人残った義兄を知っている人物で、ひとしきり亡くなった日のことを話してくれたそうです。そして、現在の状態があまりにもかわいそうなので、「埋められたあたりの土を取ってきて、こちらの(多摩の)お墓に撒いておいたのよ。」実はこの一言が鍵になりました。

霊園に出入りしている石材屋さんから、義父の三三回忌の通知が来ました。もうそんなになるんです。そこでカミさんが、石屋さんに義兄の名前を墓碑に彫れないか聞いてみました。やはり埋葬されていない人はダメだそうですが、終戦後の事情と叔母が土をお墓に撒いたことを話すと、「それならできます。」と引き受けてもらいました。やがて出来たという連絡を受け、義兄の命日の2日後の8月6日、カミさんと一緒に霊園まで確認に行ってきました。義父、義母の次に、長男である義兄の名前が彫られています。本当は義母が生きているときにやりたかったのですが、交渉ごとは義母よりカミさんの方がうまいので、カミさんが管理をするようになったから出来たのでしょう。今年は義父の三三回忌と義母の一周忌、お墓でお坊さんにお経を上げてもらいます。

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