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2010/11/23

三角の貯木海面

2010年11月23日

今は昔の昭和30年頃、三角線の貨物に直径10cmくらいの丸太材があり、貨車に積まれて三角から送り出されていました。三角への入荷は船で、そのため貯木海面も、陸上の貯木場もありました。三角に十條製紙の出張所があったことから小生はこれは十條製紙八代工場に送られる製紙用原木と思っていたのですが、親父は坑木だと言っていました。この貯木海面の歴史は古く、三角駅前に展示してある明治~大正期と言われる三角港の写真にも、ちゃんと写っています。この写真には巻き上げコンベアが2基ありますが、小生が知っている時代は使われていたのは1基だけでした。A


八代の製紙工場は古く、八代から2つ肥薩線側に入った坂本に東肥製紙ができたのが、明治35年です。それで八代の製紙工場の歴史を、いろいろ調べてみました。十條製紙の社史が印刷博物館にあることがわかったためそこに行って調べ、さらには紙の博物館の図書館にも行きました。さすがに紙の博物館の図書館の方が、蔵書は豊富です。おかげでいろんなことがわかりました。ちなみに、印刷博物館は一般公開はあまり考えられて無く、そのため開いているのは平日だけです。紙の博物館は飛鳥山公園の中で、土日もっやっています。余談ですが飛鳥山公園にはD51が置いてあり、これは標準型末期のものでドームが角形になっている「半戦時型」と言われるタイプです。10112001


調べてわかったことは、東肥製紙が操業を開始した頃は原料はボロか藁で、製品はまだ肥薩線の開業前なので坂本から八代までは川舟で、八代から三角までは艀舟で、三角からは本船に積まれたそうです。船の漢字の違いで、大きさが想像できます。八代の工場は東肥製紙の後身の九州製紙の時代の大正13年に誕生したもので、九州製紙はその後樺太工業、王子製紙、十條製紙と名前が変わり、日本製紙となった現在も健在です。樺太工業と名前が変わったようにその時代は製紙原料は樺太材で、当然三角港を経由していますが、三角港の貯木水面の使用許可を取ったのは昭和23年でした。小生の知っている貯木水面と貯木場は船から鉄道に積み替えるのにふさわしい設備で、製紙会社がその設備を使ったのは戦後ほんの10年くらいということがわかりました。となると古い写真に出てくる貯木海面は、親父が言ったように坑木だったのかもしれません。坑木だったとするとそこからどこに送られたのか、まだまだ調べることがありそうです。

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