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2010/05/30

契約更改

2010年5月30日

先日所長に呼び出され、来期の契約を行いました。小生は6月末で定年退職したため、再雇用は7月1日を起点とする1年契約です。再雇用でも、考課があるのにはびっくりしました。下の方の成績では契約打ち切りなので、まああって当然と言えば当然ですが。7月が契約更改なので、考課期間は7月から5月という、11ヶ月です。成績は5段階の最高点でしたが、所長曰く、「来期は成績を一つ下げるくらいに、仕事をセーブしてください。」普通の社員だったら「来期もこの調子でがんばるように。」と言うところですが、こちらは軟着陸というか、徐々にいなくても困らない状態に持っていかなければいけないので、小生が手を抜いた分若手が肩代わりすることが、求められています。給料も来期はそのままですが、徐々に下がるそうです。どうやって手を抜くかですが、とりあえずは、入院のために取っておく必要も無さそうなので、もう少し休暇の回数を増やします。しかし「金があるときは暇がない。暇があるときは金がない。」とはよく言ったものです。

2010/05/29

雨男、只見線訪問記(3)

2010年5月20日(つづき)

会津西方から会津桧原へ、一駅移動する。会津桧原から第一橋梁の横手へ出られるはずだ。地図を頼りに歩いて行くと舗装道路が切れ、道を間違えたことに気がつく。引き返すと、地元の方が、鉄橋へ行くのか、と声をかけてきた。そうだと答えると、抜け道を教えてくれた。Dscf4154a


どうやら道を尋ねる人が、多いようだ。お墓の横を抜けると、本道へ出た。踏切を渡りしばらく行くと、車を止められるスペースがあり、すでに5,6台の車がいて談笑中。仲間内のようだ。Img_1249a


撮影ポイントは川のすぐそばの細い場所、すでにカメラの付いていない三脚が数本立っている。なるほど、場所取りはこうやるのかと感心し、空いたところに一脚を立てておく。川霧が立ちこめているののの橋梁はアーチがくっきり見え、今来てくれれば最高だ。雨が降り出したので一つ上の道路に移動し、そこに椅子を出し傘を差してて腰掛ける。撮影ポイントは狭く、リュックすら置けないのだ。Img_1250a


ところが霧がだんだん濃くなり、練習運転の1本前の定期列車が来る頃には、橋梁は全く見えなくなってしまった。場所も少し上から撮ってみようと思い、一脚の場所から1mほど上に移動する。ここは三脚が立てられないので、手持ち専用である。三脚の場所にも人が集まってくる。しかし「何撮ってきたと聞かれたら、霧撮ってきたと言うしかないな。」と前の人が言うほど、霧だらけだ。たまらず場所を移動するという人が2人出た。

漏れ聞こえてきた会話によると、ここに集まっている人達は、皆仲間というか、常連さんのようだ。SL列車が走るときは練習運転と本番と、4日間通い詰め。追っかけのグループと携帯電話で連絡を取り合っている。と言って鉄道ファンではないようで、気動車を電車と言ってはばからない人もいる。あちこち写真を撮りに行くわけでも無さそうで、何ファンなのか判明しがたい。ちょっと異質な感じがする。そして川のそばの木を、剪定ばさみを出して刈り込み始めた。足の悪い人が仲間にいるのでカメラの位置が低いのは分かるが、ちょっとやりすぎではないかと思う。そして全員車で、鉄道会社や地元には、一銭もお金を落とさない。これでは各地で撮り鉄規制が始まっても、仕方がないだろうと思う。行けるときに写真を撮りに行こう、という小生の考えは体調から来ているが、外部要因もそれに拍車をかけている。Img_12533a


やがて霧の中をC11が通過、良い感じに煙を出してくれたが、いかんせん霧が多すぎた。後ろを振り返ったら、追っかけの人達が大勢来ていた。三脚を立てられない場所も多く、長玉手持ちの人もいた。
荷物を片付けて、撤収にかかる。リュックを雨の中に放りだして置いたが、防水スプレーが効いているようだ。小雨で良かった。会津桧原に歩いて戻る。帰りは登り坂なので、時間がないときは大変だ。幸い、余裕はある。会津若松行きのキハ40では、今度は500番台に席を取る。行きのコイルバネと、空気バネとの乗り比べである。線路の悪いところでは空気バネはよく揺れるが、そういう揺れはない。東日本の管内では、ローカル線も比較的保線が良いようだ。Dscf4156a

会津若松で一旦降りて外を見たら、駅前の駐車場になっているところはかつての貨物駅だ。ED77が廃止された後もED75牽引でしばらく貨物が残っていたが、復活する気もないようだ。会津若松でお土産と、弁当と、ビールを買い込む。そして30分以上前に、並ぶ。今度の郡山行きは各停で2両しかなく、早めに並ばないと2人席が取れない。後ろを見たら会津鉄道の各停に「会津マウント・エクスプレス」の旧名鉄8500系気動車が来ていたが、順番確保のために写真を撮りに行くのは止める。磐越西線の各駅停車は、719系の2連、211系と同じ顔である。同じ719系でも奥羽線の5000番台は標準軌で、こちらは基本番台だ。。Dscf4158a


狙い通りの2人席が取れ、安心してビールを開ける。これが高校生と一緒の4人がけだと、ビールを開けるのははばかられる。磐越西線には、かつては中山宿のようなスイッチバックの駅があった。どうなっているかと見ていたら、中山宿は単なる棒線駅に模様替えをしていた。電車は勾配途中でも平気で起動できるので、スイッチバックの必要がないのだ。別の平坦地に信号所ができていたのは、貨物列車の交換用であろう。Dscf4159a


郡山からは「つばさ」で帰京。下り列車は撮れ、E3系2000番台、583系と色々乗れて、キハ40の乗り比べまで行って、楽しめた旅であった。
(完)

2010/05/24

雨男、只見線訪問記(2)

2010年5月20日

朝から雨である。昨日見たローカルの天気予報で、会津の中部は午後から曇と出ていたので、それを信じて出発する。ちなみにカミさんはドラ息子のいる岡山に行っているが、そちらの天気は回復している。かつてはカミさんは雨雲を連れて歩いているような雨女だったが、最近は男も寄ってこなくなった上に、雨雲も寄りつかなくなったようだ(笑)。その分、雨雲が小生につきまとうようになってしまった。ともかく、今日の行き先には売店などあるとは思えないので、駅構内のコンビニでおにぎりと水を仕入れておく。Dscf4151a


只見線の朝の会津川口行きはキハ40の3両編成、通勤列車で会津若松まで4両で来て、1両切り離しての折返しである。車両は寒地用500番台と暖地用2000番台の混結編成。本当は寒地用で統一したいのであろうが、国鉄の分割民営化で広域配転ができなくなり、暖地用の処置に困っているのであろう。台車を見て、暖地用はコイルバネ、寒地用は空気バネということを再認識する。Img_1248a


今日の練習運転は確実な情報はなかった上に、同業者を全く見かけなかったので少し不安もあったが、ホームに「9:06、試運転」という発車案内を見つけ、安心する。それに車内に同業者が1名いた。Dscf4153a


この列車は沿線の高校の通学列車のようで、高校生だらけである。時々駅で駆け込んでくる生徒を待って発車する。会津坂下を過ぎると高校生もいなくなり、車内はがら空きになる。今日の行き先をどうしようかと考えたが、この天気でお立ち台への山登りはあきらめ、第二橋梁を狙うことにする。そうすると下車駅は会津西方であるが、それでも会津若松から1時間半かかる。

会津西方下車、駅に待合室はあるが、それ以外は何もない。この列車が会津宮下で交換する上りをやり過ぎると、約4時間列車はない。体調に不安があるときには、来れない場所だ。雨は降ったり止んだり、何とかなりそうだ。第二橋梁が見える地点は木がちょっと邪魔だが、歩道が車道の上にあって椅子を置いて粘れるので、そこに腰を落ち着ける。ビニールに新聞紙を置いてリュックを置き、折りたたみの椅子を出して傘を差して、文庫本も出す。これから1時間半待つ。周りには誰もいない。Img_1242a


しばらく本を読んでいると、ちょうど小生と鉄橋を結ぶ線上に車が1台止まる。どうやら同業者のようだ。しばらく経ったら運転していた人が降り、小生のところに「すみません、気がつきませんでした。」と挨拶に来た。先客の前に車を止めるのは、仁義に反するようだ。車を移動させ、小生の並びに三脚を据える。木が邪魔をしてあまり良いポイントではないが、そこは先客優先である。色々話を聞いてみると、今週の土日は山梨でD51の練習運転が行われるので、只見線は土日がかえって少ないだろうとのことだった。Img_1242_1a


通過時刻が近づくと、どんどん同業者が増える。幸い雨が上がる。先日買った1脚を試してみるが腰をかがめないとファインダーを覗けず、手持ちに変える。川霧がかかっているのは良いのだが、ちょっと多すぎる。やがてC11 325に引かれた練習運転列車が通過、まずまずであった。しかし最近見るSL列車の走りには昔のような緊張感が見られないのは、なぜだろう。A


車族と別れ、会津西方の駅に戻る。上りは第1橋梁に挑戦するつもりなので、次の上り列車で一駅移動する。待合室には誰もいないのでそこでおにぎりを食べ、しばらく靴を脱いで横になる。足底腱膜炎がずいぶん楽になったとは言うものの、足には極力無理をかけないようにする。

(つづく)

2010/05/23

雨男、只見線訪問記(1)

2010年3月
新しい時刻表を見ていたら、5月22,23日に只見線にSL列車が走ることが分かった。只見線なら牽引機はC11、それも真岡鉄道のC11325である。只見線には只見川に魅力的な鉄橋が多数有り、特に第1橋梁は有数の名所になっている。とりあえず前日出発会津若松泊で、行くことにする。A


2010年4月10日
クラブのOB会の例会。そこで写真のほとんどプロと言って良い先輩にこの話をしたら、土日の列車が走るときには、必ずその前の水木に練習運転があることを聞いた。ただ只見線は本運転だろうが練習運転だろうが人はめちゃくちゃ多く、場所取りが大変とも聞いた。ただ先輩曰く、「南海君は手持ちだから、後からちょっと覗かせてもらえれば撮れるさ」。仲間内では写真を専門とする連中は皆フルサイズで三脚装備で、手持ちでAPS-Cのカメラを使う小生の写真は「余技」と見なされている。まあ確かに小生は写真は専門ではない。

余談だが、いわゆる「鉄」に撮り鉄とか乗り鉄とかあるように、クラブの現役時代からそれぞれ専門が決まっていた。当然専門が複数にまたがる人もいる。小生は研究派だった。今も電気学会に加入し続け論文誌も読んでいるのは、仕事のためより趣味のための方が大きい。仲間にも研究派はいたが、皆それぞれその道のプロになっている。某重電メーカーの交通システム部長、某私鉄の鉄道部長、元国鉄の機関区長、など。小生は門外漢になってしまったが、電車や機関車がインバーター駆動になって話が変わってきた。誘導電動機だったら自分で設計し、触ってきたのである。偉くなりすぎて総論で話す連中とは、わけが違う。ただ同期電動機はリラクタンスモーターも含め全くやっていないので、同期電動機駆動が普及するまでである。

閑話休題。本番の「SL会津只見新緑号」にはヘッドマークが付く。C11で旧型客車にヘッドマークは似合わないので、練習運転に行くことにした。仕事の都合で19日の夕方出発して会津若松泊、20日の一発勝負、雨が降ったらそれまでである。なお昔はカミさんが雨女だったが、最近は小生が雨男になったようで、かなりの確率で雨が降る。

2010年5月18日
どうやら20日は完全な雨模様である。19日は何とか良さそうだったが、外せない会議があるので仕方がない。リュックや靴に、防水スプレーをしっかりかけておく。リュックの中の荷物は、すべて小分けしてビニールの袋に入れる。また待ち時間はやたら多いので、折りたたみの椅子と文庫本も入れる。

2010年5月19日
リュックをしょい、帽子をかぶって完全なハイキングスタイルで会社に行く。会社内では作業服なので、問題はない。一番困るのは急な外出だが、今日は会議が入っているので、これは断れる。Dscf4146a

定時の1時間前にフレックスで上がる。予定より少し早かったので、蒲田で一旦外に出て東京都区内発の切符で入り直す余裕があった。列車はつばさ127号。MAXやまびこと併結しており、郡山までなのでやまびこの方でも良いのだが、新幹線の5人がけより在来線の4人がけの方が座席が広いのだ。つばさは新在直通電車なので、車体の大きさは在来線規格である。Dscf4147a


つばさからは400系が姿を消してしまい、E3系に統一された。新しいE3系2000番台には初めて乗る。1000番台は荷物棚に東急の7200系のように天井からステーが出て車内が狭く感じたが、2000番台ではそれがなくなって見通しが良くなった。さすがに横引きカーテンはブラインドに変わったものの、400系からの伝統の間接照明はそのままである。車内でビールに駅弁、足置きに靴を脱いで足を乗せ、ゆったり過ごす。Dscf4148a


郡山で磐越西線のあいづライナー5号に乗り換える。指定席のある列車なので455系かと思ったら、何と国鉄色の583系の6両編成だった。モハネ582に席を取る。このモハネ582、パンタグラフの下は寝台が2段で中段に余裕があり、狙い目だった。Dscf4150a


581/583系の原型は複層ガラスの間に内蔵されたベネチアンブラインドだったが、横引きカーテンに改造されている。なんと、見られなくなったと思った「大窓横引きカーテン」に再会してしまった。快速列車なので、通勤客も多い。と言っても、ボックスに2名ずつ位でゆったり座れる。もう暗くなって外がどうなっているかは分からず、会津若松に着いた。

(つづく)

2010/05/22

注射器肝炎

2010年5月22日

akioさんのところで紹介があった、「注射器肝炎」(美馬聰昭著、桐書房)を購入し、読みました。何よりも注射器肝炎はかなり早くから分かっていたということが、驚きでした。分かっていながら公式には認められていない、というのはいつものことではありますが、報告すらされていないというのは医師間のかばい合いを感じます。まして肝炎の検査班が肝炎をかえって広げ、それも隠し通したというのは、これは犯罪ですね。しかし多分証拠は揃わないでしょう。また裁判が北海道で起こったとき、東京でそれを否定するような学説を発表するやり方は、水俣病のときと一緒ですね。マスコミは東京での発表を大きく報じますから。

B型肝炎訴訟(2006年最高裁判決)については、小生は批判的な意見をかつて書きました。予防接種で感染するとしても、昭和30年代に1人1針1筒を実現するのは、その時代を知っているだけに、まず不可能と思ったからです。その点美馬氏は、集団予防接種自体を悪とするような書き方でしたが、小生は効の部分もあると思うので、集団予防接種は認めます。B型肝炎訴訟について別の資料を調べたところ、原告5人の内に昭和30年代に予防接種を受けたのは1人だけで、後はすべて昭和40年代以降ということがわかりました。こうなると話は変わります。厚生省(当時)が積極的に行動していれば、昭和40年以降なら1人1針1筒が実現できたと思えるからです。使い捨ての注射器が使用可能になるのは昭和50年以降ですが、昭和40年代ならば熱湯消毒しながら予防接種をするだけに十分な機材も出回って来ていたからです。やはり国は怠慢としか言えません。

なおこのB型肝炎訴訟のおかげで肝炎対策が進むようにはなったのですが、この判決自体に疑問を感じるのは変わりません。それは被告が「疑わしき」なのに罰せられたからです。被告は国ですし、疑わしきは救済するという方針には合っているのですが、もし被告が個人だったら完全に冤罪の可能性があります。やはり裁判はなじまず、無過失補償の処置を講じるべきです。裁判がなかったら、国は全く動かなかっただろうというのも、事実ですが。

さて小生の場合、B型とC型の重複感染ですが、B型はおそらく母子感染でしょう。母親はとっくに亡くなって確認のしようもないのですが、3人姉弟の内長姉がB型肝炎感染後自然治癒、次姉はノンキャリア、末っ子の小生がキャリアでした。なお小生はC型肝炎治療の1回目のIFNでHBs抗原がマイナスになりましたので、キャリア「だった」と書いています。

あらためて思うと、小生を起点として学校の予防接種で感染を広げた可能性があります。特に幼稚園から高校まで一緒だった、家が向かいにある同級生が数年前に肝硬変で死んでいます。彼の死の原因が小生であったとも考えられるのですが、少なくとも彼に関しては、原因は小生ではありません。というのも、彼は出席番号は小生より前だったからです。彼はC型肝炎だと思います。

この本によると、C型肝炎の感染原因は消毒不十分の静脈注射器とのことですが、小生のC型肝炎の感染原因も、色々考えて見ました。この本に書いてある、注射器に何回か水を吸い込んで洗うやり方は、見たことがあります。これをどこで見たかは、分かりません。小生が疑っていた医院(現在は廃院)は、先生は元満州国軍軍医少佐だったのですが、ここでは蒸し器のようなもので注射器を消毒し、看護婦さんが鉗子で取り出しているのを見たことがあります。そしてここによくかかっていたのは子供の頃で、静脈注射はほとんどやっていません。従って、ここはシロのようです。風邪をひいたと言ったら静脈注射だった時代は、小生の中学から社会人10年くらいの間(昭和36年~昭和56年)だったのですが、その間は熊本県から埼玉県にかけての数多くのところで受診しています。この間のどこかに、原因となった医療機関があるのでしょう。今となっては、どうでも良いことですが。

2010/05/16

のだめカンタービレ最終楽章

2010年5月16日

「のだめカンタービレ」最終楽章後編の映画を見てきました。元々「のだめ」の原作は最新のオペラ編も含めて全巻そろえているし、テレビドラマ実写版も見たのですが、映画は「テレビに放映される分で良いか」と思い、見に行っていませんでした。今回映画館に足を運ぶ気になったのは、ピアノ部分の吹き替えをラン・ランがやるからです。今回の後編ではのだめがショパンのピアノ協奏曲を演奏しますが、あの独特の個性のラン・ランが、原作で「最近ではあまり見られない、大胆不敵で型にはまらない個性」とも、「これはショパンかも知れないが、ショパンの表現ではない」とも評されている演奏をどう表現するかも見たかったからです。演奏を聴こうと思ったら、やはりテレビ(最近の液晶テレビは、音が悪い)より、映画館です。おまけに最近はシニア料金で映画が見られるので、安上がりです。

「のだめ」のオープニング曲はベートーヴェンの交響曲7番ですが、いきなりピアノソロ。何とリスト編曲のピアノ独奏版でした。演奏はこれもラン・ランです。肝心のショパンのピアノ協奏曲は、原作やポゴレリッチほどのとてつもなく個性的ではなく、元気の良いまともな演奏でした。なおラン・ランはこの映画の中でオープニング及びエンディング曲も含め、全部で10曲演奏しています。そしてそのほとんどが途中で切らずに楽章全部をやってくれていますので、ちょっとした名曲コンサートでした。

なお印象に残ったのはカントナ国際コンクールのピアノ部門の場面で演奏されるラヴェルのピアノ協奏曲、その音楽に合わせてうさぎと一緒に跳んだりはねたりする場面は、まさに映画ならではです。それと「テルミンとパーカッションのための小品」(松谷卓作曲)。竹内正美さんのテルミンと山田智之さんのパーカションですが、良い演奏でした。

次の映画は「RAILWAYS」です。

2010/05/15

垂直視差立体視?

2010年5月15日

先日、仕事でビッグサイトに行ってきました。お仲間には色々関係者がいらっしゃるような、展示会です。そこでひょいと大日本印刷のブースに立ち寄りました。ホログラムが展示してあるところです。

小生は右の視力はかろうじて残っている程度(視力0.07)なので、ホログラムなどの両眼視差立体視を利用したものは、立体的には見えません。ところが展示してある中に、一つだけ立体的に見えるものがありました。久しぶりに見る立体感(疑似立体感)です。担当者に説明を求めたところ、小生が立体的に見えないものは視差を付けてあるのは左右だけ、立体的に見えたものは上下にも視差を付けてあるとのことでした。そこでもらったパンフレットによると、普通のものはエンボスホログラム、立体的に見えたのはリップマンホログラムと言うらしいです。

さてそこでまた調べてみましたが、視差には水平視差だけでなく、垂直視差というものもあるらしいのです。しかし垂直視差は面の傾きを認知するときに(無意識に)使っているようで、これでの立体視の話など出てきません。まして両眼がある水平視差(両眼視差)とは違って単眼での立体視差は、顔や目の微妙な動きで上下視差を合成しているとしか思えません。なおその微妙な垂直視差で立体的に見えるのはかつて小生が両眼でものを立体的に見ていたからで、立体視は記憶の影響もかなりあるようです。ということは、あるものが立体的に見えるかどうかは、後天的に変わることもあり、訓練でも変わるもののようです。

しかし久しぶりに立体的な(小生にとって立体的に見える)ホログラムを見ました。今度何とかしてサンプルを手に入れねば。

2010/05/09

面白い「古田史観」

2010年5月9日

古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」「失われた九州王国」「盗まれた神話」の3部作、読み終わりました。実に面白かったです。最新刊が出ているのに、元々1970年代に出された本の文庫版(1993年刊行)をさらにその20年後に手に入れて読んでいるのですから、作者にしてみればたまったものではないでしょう。ただ基本的な史観は変わっていないと思います。

古田史観(と勝手に言います)の特徴は今までの歴史学者が「ここは原文の誤り」と、ある意味自分の都合の良いように解釈していたところを徹底的に排除し、資料に矛盾があるところは古い時期に書かれたものを正として、資料に忠実に古代史を再構築したところにあります。また古事記、日本書紀は「他王朝の歴史を自分の歴史のようにしているが、作り話は書いていない」と見なしています。それで出てきた結果が、考古学の最近の結果と矛盾しないところが面白いです。

さて、それで構成された日本古代史を自分なりにまとめてみると、以下の通りになります。なお一部に小生の解釈が入っていることを、お断りしておきます。
紀元前に朝鮮半島東岸からロシア沿海地方にかけての人が出雲地方に移り住み、出雲王国を作った(国引き神話)。
紀元前後に対馬海峡の海上を制覇していたものの陸に根拠がなかった言わば「海峡族」が九州本土と朝鮮半島南部に拠点を作った(国譲り神話)。これが7世紀まで九州で栄え、後漢から金印をもらい、邪馬壹国(邪馬臺国=邪馬台国ではない)、倭の五王として中国の歴史書に登場する倭国である。領土は北九州から朝鮮半島南部にかけてで、首都と言うべき中心部は博多湾岸であった。
一方倭国(九州)の王族ではあるが傍流でしかも妾の子として生まれていたイワレヒコ(後の神武)は倭国の政治方針に絶望し、東国への移住を決意する(3世紀頃か?)。瀬戸内海沿岸の豪族の援助も受け、近畿大和のナガスネヒコの王国を奪い、ここに新たな王国大和を作る(神武東征)。
やがて大和も中国に使節を派遣始めるが、日本の代表は相変わらず倭国であった。
7世紀後半に倭国は衰退を初め、8世紀に中国から大和が日本代表として認められる。そして完全に倭国を滅ぼし、大和朝廷が日本を統一する。そして歴史書を編纂する(日本書紀)。

しかしこの古田史観が日本古代史の主流になることは、まずないでしょうね。小生は古田史観の方が好みですが。

この7世紀頃まで朝鮮半島南部から北九州にかけてが倭国の領土であったという解釈は、国立歴史民俗博物館で見た「北九州弥生人」の記述と一致します。このあたりの弥生人は他の弥生人と違っており、分布は朝鮮半島南部まで広がっていたという記述を見たときは、衝撃的でした。なおこれで短絡的に「7世紀まで日本が朝鮮半島南部を支配していた」と取るのは、誤りだと思います。倭国は「海峡族」の国家で、たまたま中心部が博多湾岸にあっただけですから。

なお韓国の歴史書では「朝鮮民族は長く独立を保ってきた単一民族」と書いてあるそうですが、主体は新羅系ではあるものの、百済はおそらく海峡族系、高句麗はまた異なり、ルーツをたどれば結構多民族だと思います。

日本も、九州は北部は海峡族で南部に行くほど縄文の色が濃く、近畿大和は海峡族と南九州の混血の神武が攻めていったときには先住のナガスネヒコ(出雲系か?)がいたわけですから、日本も単一民族ではありません。なお小生は親の出身地から見ると、海峡族と熊襲の混血です。

古田氏の次の本を、探します。

追記です。九州王朝は「倭」、大和王朝は「大和」と国名を書いていますが、実際には九州王朝は倭、俀(タイ)、日本と、大和王朝は倭、日本と国号を変えています。この通りに書くとどっちがどっちか分からなくなりますので、倭と大和に統一して書きました。

2010/05/05

動き回った連休

2010年5月5日

この連休、小生の会社は4月30日が出勤だったので、休みは5月1日からの5日間です。久しぶりに何もなく、また体調も良いので、あちこち出かけることにしました。カミさん曰く、「病院と縁がない連休は滅多にないので、行ってきたら。」そうなんです。小生は5月は今まであまり調子が良くなく、連休中入院だったことも何度か。目の手術のときは連休の合間を縫って通院し、連休明けが手術でした。そこでいきなり計画を立て、出かけました。ちなみにカミさんは、この連休はラ・フォル・ジュルネに入り浸りです。

まず5月1日、真岡鉄道に行きました。目当てはSL真岡号です。下りを狙うには早起きしなければならず、上りだけを狙うため朝はゆっくりです。まず湘南新宿ラインで小山まで、各停のグリーン車を使ってのんびり行きます。そこで水戸線に乗り換え、211系と同じ顔の415系1500番台が待っていました。Dscf6098a


水戸線は途中で交流に変わりますが、交直変換点がこんな小山の近くにあるとは知りませんでした。水戸線の沿線は花がきれいで、今の時期はツツジやハナミズキなど色の濃いものが多く、それこそ百花繚乱です。Dscf6103a


下館で降りるのは初めてです。そこから真岡鉄道へ。最近は私鉄と改札口を別にしたり線路を切ったりするところが多いのですが、改札は共通、線路もしっかり繋がっています。反対側には、関東鉄道も見えます。真岡鉄道の下館駅は機回り線がないので、機関車の付け替えができません。そのため回送を引っ張ると思われるDE10が待機していました。Dscf6100a


撮影は下館に近い折本で。折本停車なので、力行してくれるはず、つまり煙が出ると見込みました。ところがあまりの好天、煙は全く出ませんでした。Img_1161_1a


SLの白煙は水蒸気が凝結したものですから、寒いときや湿度の高いときの方が出やすいのです。写真は失敗でした。帰り道に、先ほどのDE10が先頭になって同じ列車を引っ張ってやってきました。回送かと思ったら、営業していました。Img_1172_1a

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2日は休養日、3日はサントリーホールに「N響カンタービレコンサート」を聞きに行き(準・メルクル指揮のブラームス交響曲1番が、名演でした)、4日はひたちなか海浜鉄道に出かけました。ホームページを見たら、旧型の2004と2005が運行に入ると書いてあったからです。Img_1189_2a


さて4日、早起きして上野へ、そしてスーパーひたち11号で勝田へ、さすがにがら空きです。ところが乗り込んだひたちなか海浜鉄道は満員、那珂湊は観光地だというのを忘れていました。Img_1200_1a


乗ったのはキハ2004、北海道仕様の木張りの床と、DMH17Cのガラガラいう音を楽しみました。撮影は田圃の水鏡を狙って中根で、先客が5人ほどいました。Img_1196_1a


ところがキハ3710(みなと、と読む)が来るときは良いのですがキハ2000が来るときはなぜか風が出て、水鏡になりません。またこの日は春霞か薄曇りで、空の色が灰色です。それでも準急色と急行色のキハ2000をしっかり味わいました。Img_1222a


それから那珂湊に移動して、車庫見学に行きました。キハ20オリジナルタイプのキハ205と、旋回窓が付いたキハ222はお休み中です。けは601とキハ203の車内が公開中で、しっかり見てきました。なおキハ203のエンジンは外されており、稼働車の交換用に回されていました。DMH17Cはすでに生産が終了して40年近く経っており、部品の入手も大変だろうと思います。なおこの日はメイドトレインも運転されており、那珂湊ではメイドの格好をした女の子も見かけましたが、メイドトレインにはぶつかりませんでした。Img_1220a


勝田からはフレッシュひたち48号で帰りましたが、自由席が指定席に振り返られたこともあって、100%以上の混みようでした。小生はうまく勝田からの増結車に乗り込み、ゆっくり寝て帰りました。

今日5日は、休養日です。連続して動き回ると心房細動が出やすいので、予防です。しかし連休は、しっかり楽しみました。

2010/05/03

秘密の地下鉄?

2010年5月3日

秋葉俊著「帝都東京・隠された地下網の秘密」(1,2)には、公表されていない秘密の地下鉄の話がいろいろ出てきます。溜池山王駅からサントリーホールに向かう地下道は、障害物を避けて突然下がります。この障害物、銀座線とは位置が違うのに複線の線路の幅くらいあり、しかも時々列車の走行音まで聞こえるので、何やら怪しく思っていました。しかも場所はこの本に「曰くあり」と書かれている溜池山王です。10050301


今日は天気も良く時間が余ったので、この障害物から出口までを補足で計り、地上の位置を推定してみました。するとちょうどアメリカ大使館の前を通っている道路(榎坂通り?)に当たります。この道路、道路の端から中央まで、マンホールだらけです。どうやらこの道路の下に大型の共同溝が埋まっており、サントリーホールへ抜ける地下道の不自然な階段はこの共同溝を避けたもののようです。なおサントリーホールへ抜ける地下道は南北線の真上なので、南北線の走行音が響くようです。

残念ながら、ここは秘密の地下鉄ではありませんでした。

2010/05/02

信州桜紀行(4)

2010年4月18日(日)

今日は天気も良く、暖かい。防寒用の下着を、やっと脱いだ。まず駅まで行き、荷物を預けて「タウンスニーカー」という循環バスに乗る。3回乗ると一日乗車券の方が安くなるので、一日乗車券を買う。100418000a_2
またこの一日乗車券を見せると、あちこちの施設が割引になる。循環バスは路線によって大きさが違い、松本城の方へ行くのは普通の路線バスである。

昨夜ライトアップされているところへ来たが、日中改めて見ると、桜が見事だ。松本は背景にアルプスがあり、今はまだ雪をかぶっているので、アルプスを背景にしたお城はいかにも松本である。100418006a

今日は日曜日ということもあり、裏千家の野点なども行われ、華やかな雰囲気である。せっかくなので、天守閣にも上る。100418008a


ところがこれが大混雑、上がって降りるだけで1時間以上かかった。階段が急で、これは心臓にしろ足腰にしろ、元気なときでないと上れない。今のうちに上がっておこう。降りたら、所要時間が90分になっていた。100418010a


松本城の裏側の口から出て開智学校へ。元々あった場所とは違い、保存のために移築されたようだ。明治の建築がすばらしく、教育県長野と言われる元を作ったのは、この開智学校のようだ。100418024a


なお松本市と長野市は昔から県庁所在地争いをした仲(つまり、仲は悪い)のようで、展示のあちこちに県庁所在地を長野市に取られた無念さが読み取れる。この開智学校、宇和島にある開明学校と姉妹校のようだ。100418018a


一旦バスで松本駅に戻り、「タウンスニーカー」の違う路線で県の森公園へ。ここがまた桜の名所である。昼食はまたまたコンビニサンドで、県の森公園の桜の下のベンチで食べる。100418026a


せっかくの良い天気、室内で食べるのはもったいない。県の森公園の桜も見事だが、隣は旧松本高校である。と言うより、松本高校のグラウンド部分が公園として整備されたのが、県の森公園のようだ。松本高校はあの北杜夫氏の母校でもある。松本高校は場所もそのままで周りの並木もそのまま残されており、それどころかいろんなサークル、特に音楽系のサークルの練習場として現役である。100418027a
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名残惜しいがこれで松本も終わり、帰路につく。帰りは松本発横浜行きの特急「はまかいじ」、車両は185系で面白くなく、停車駅が多くて時間がかかるが、横浜線に乗り入れてくれるのがよい。この特急、土日しか走らないが、土曜出勤のときは大抵会社の近くの踏切で出くわし、一度乗ってやろうと思っていた列車だ。100418041a


同じ185系でもATC付の限定編成で、東神奈川-桜木町のわずか2駅区間のために、ATC付となっている。あの2駅区間をATC/ATS-Pの併設にしたら、機関車も含め制限なく乗り入れができるはずである。東京地下駅をATCからATS-PにしたJR東にしては、珍しい処置だ。100418042a


松本でビール(正確には、発泡酒)を仕入れたが、そのキリン淡麗生グリーンラベル、何と神戸工場製であった。松本と長野へは東京からも名古屋からもアクセスできるが、まさか神戸から来るとは思わなかった。
「はまかいじ」は中央線を桃の名残を見ながらのんびり走り、八王子では下り線の隣のホームに到着、そこから下り線を横切って横浜線に入る。そして町田では、隣に各駅停車が待っている。実に楽に帰宅できた。松本に頻繁に行き始めるかも知れない。

(完)

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