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2008/09/23

ノモンハン

2008年9月23日

アルヴィン・D・クックス著「ノモンハン」全4巻(朝日文庫)、やっと全巻読み終えました。文庫本とは言え4巻となると、やはりすごいボリュームです。その前に「遙かなるノモンハン」(星亮一著、光人社)も読んだので、すっかりノモンハンづいています。

何で今頃ノモンハンを調べだしたかというと、実家の片付けの時「ノモンハン事件陣中日誌、戦闘詳報」なる書類が出てきたからです。中身はガリ版刷りと「陸軍」と書いた専用用箋の写し(本当のカーボンコピー)です。親父は戦時中中国大陸にいたのは聞いていたのですが、ノモンハンとは聞いていませんでした。ノモンハン事件は「圧倒的火力のソ連軍戦車に、肉弾で対抗した」というような話が伝わっていますが、それは第2次ノモンハン事件のことで、これは第1次、それも「大山鳴動鼠一匹」だった第1回戦闘の時のもので、歴史的な資料価値はありません。

親父は左肩の後肩胛骨のあたりに、弾傷がありました。これは弾が抜けたところで、左胸の肋骨の下あたりから弾が入ったと聞いていました。その他断片的に聞いたのは、「部隊本部にいたので、狙撃兵に狙い撃ちされた。」「一番先に撃たれたので助かった(まだ助けてくれる人がいた)が、その後どんどんやられた。」ということです。そのほか左腕を吊った入院中の写真や、「部隊全滅」と聞いて当番兵と一緒に病院を脱走し、汽車で駆けつける時の写真なども見たことがあります。この具体的史実を知りたくなったのです。

ノモンハン事件は1939年(昭和14年)5月の第1次と、6月(実質7月)以降の第2次とに分けられます。そして第1次の第1回戦闘は5月13日から16日、第2回戦闘は5月22日から31日です。陣中日誌は、5月13日に山縣部隊が非常呼集を受けるところから始まっています。山縣部隊とは第23師団歩兵第64連隊のことで、そこで親父達通信班は、田坂少佐の部隊(第1大隊)と一緒に東捜索隊に合流するよう命令を受けています。この捜索隊というのは、敵を捜索して遭遇したら攻撃する部隊で、救助隊ではありません。そして東捜索隊は出撃して、敵が逃げたためたいした戦闘もせず、5月16日に帰着しています。

ここで旧帝国陸軍の組織をちょっと書いておくと、大本営陸軍部を頂点として、派遣軍、方面軍、軍、師団、連隊、大隊、中隊となります。親父のいたところは、関東軍、第6軍、第23師団、歩兵第64連隊となるわけです。軍隊は階層社会で、通信隊も階層に分かれています。そして軍の間及び軍と師団の間は軍通信隊、師団と連隊の間は師団通信隊、連隊と大隊の間は連隊通信隊が受け持っていました。(参考資料、久保村正治著「通信隊戦記」光人社)。軍通信隊(電信連隊)は高等工業卒のエリートや電報電話局にいたプロ達で、旧制中学出で招集将校である親父は、連隊通信隊だったようです。

さて「ノモンハン」第4巻の巻末にノモンハン事件に参加した部隊と、将校名が書いてありました。そこになんと、親父の名前もあったのです。それによると負傷したのは5月29日、その日は東捜索隊が全滅していますので、第2回戦闘時は東捜索隊ではなく、第64連隊(山縣支隊)本部にいたようです。なお親父の聞いた「部隊全滅」ですが、第2次ノモンハン事件8月29日の戦闘で山縣連隊長以下通信班の中尉を含め多くの将兵が戦死していますので、8月29日のことだと思います。そうすると撃たれてから3ヶ月経っているので、病院を脱走するだけの体力は付いているでしょう。これでやっと、親父の言っていたことと史実との結びつきができました。

なお親父はその後召集解除になり、太平洋戦争末期に再招集を受けたものの国内勤務の教育担当で、佐賀で終戦を迎えています。なおこの時は「エリート」である電信第2連隊(本隊は広島)所属だったようです。

なおこの「ノモンハン」全体に関して、特に目に付くのは日本軍(日本全体と言っても良いと思いますが)の改良力の無さですね。ソ連軍はノモンハン事件当初は火炎瓶で戦車を焼かれていたのが、後半はしっかり改良型を投入し、火炎瓶など平気になっています。これを突発自体事態に対する対応力と見ると、対応力の無さは現在の日本にも当てはまっているかもしれません。

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コメント

大作興味深く読ませて頂きました。
南海さんが今日あるのは、お父様の幸運のおかげですね。
父は戦争には行かなかったのですが、遠縁の兵隊さんの遺影や遺品が残されていました。
9月に入ってから怒涛の忙しさです。
一週間後にはカナダ、一ヵ月後にはアメリカです。携帯を変えたのに説明書を読む暇が有りません。

コメントありがとうございます。

>meeさん
本当に親父は運が良く、どこか一つでも間違っていたら、小生は存在していませんね。以前書きましたが、広島から佐賀に転属になったのが、昭和20年の6月です。
カナダとアメリカ続けてとは、これは準備も忙しいでしょう。お気を付けて。

小生には、ノモンハンで戦ったという92歳になる叔父が今も健在でおりますが、
この戦争について話したことがなく内容を全く知りません。
文中、東捜索隊とありますが彼の出身県と
連隊名及び彼のフルネームをお分かりでしたら教えていただけないでしょうか。

さなえ たかあき さん、ありがとうございます。
本文中にも書いたように、小生が知ったのも親父の7回忌の頃です。親父がいたのは第23師団の歩兵第64連隊(熊本)ですが、東捜索隊は正式名称は第23師団捜索隊といい、久留米です。隊長の東八百蔵中佐(陸士26期)は徳島県の出身のようです。第23師団捜索隊は全滅していますが後に再編成され、その時は捜索第23連隊と言ったようです。

私のクラスメートに山縣忠光さんという方がいらっしゃいました。ノモンハン事件の山縣部隊長のご長男です。無口な方でしたが、クラスメートの人望が厚くみんなに好かれておられました。2008年になくなられましたが、生前、クラスメイトたちが重い口をこじ開けてノモンハン事件のお話を伺っていました。もっとお聞きしておけばと思っております。
 武田信玄の第一の家来、山縣昌景三郎兵衛との関係もあるようです。直系ではないでしょうが。
 半藤一利の「ノモンハンの夏」はよくかけていますね。

にゃんこさん、ありがとうございます。
そうですか、山縣大佐のご長男とクラスメイトでしたか。小生は親父の生前はノモンハンの「ノ」の字も聞いていなかったので、もう少し聞いておけば良かったと思っています。
山縣昌景、新田次郎の「武田信玄」でおなじみでした。

 早速、返信頂いて感謝しております。
 戦争の話を聞くことができる人がどんどんいなくなって、次の世代に正確に伝えられないことは淋しいですね。
 どうぞお体を大事に。

にゃんこさん、ありがとうございます。
義父(カミさんの父親)は戦前/戦中にかけて戦闘機や爆撃機の脚の設計をしていたのですが、その話も義父が亡くなったあとに聞きました。詳しい話を聞いておけば良かったと思っています。

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