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2008/06/30

心臓手術は当面なし

2008年6月30日

循環器の検診に行ってきました。PT-INRは1.88となり、ワーファリンはどうやら今の4錠で落ちついたようです。同じ量ですが花粉の時期が過ぎたのか、鼻血が出なくなったのが助かっています。

心臓の状態自体は特に変わりなく、しばらくこのままで行くことになりました。来年の年明けにまた心エコーを撮り、そこで次の判断になりますが、今の状態だと手術は当分無さそうです。
元々逆流度が3で、色々調べても悪くなることはあっても良くなることはない病気だったので、どうせ手術するなら早い方が良いと考えたものです。従って、心肥大の状態は手術適用の下限くらいでした。ところが去年の心エコーで逆流度が2.5に下がり、今年4月には2まで下がってしまいました。こうなるともう「手術適用」の範囲からも外れています。心肥大が治ってびっくりしたんですが、逆流度も下がったりするんですね。それだけ、ペグリバが心臓に負担を掛けていたのかもしれません。

今の状態で制限事項は走れないことだけで(よい子は駅の階段で走ってはいけません(^_^;)、お酒も適当に(いい加減ではなく、適量厳守です)飲んでいるし、特に不便は感じていません。これから逆流度と心肥大がどう変化するかですが、元々下限で手術しようと考えていたのですから、当分放って置いても平気でしょう。少なくとも、定年の方が先に来そうです。現役時代に手術しようと思って休暇をせっせと溜めていたのですが、無駄になりそうです。

薬剤師のナオコ先生からは、「せっかく覚悟を決めたのにね」と言われました。確かにこれから数年おくと、また手術の話が出た時に、再度おたおたしそうです。

2008/06/28

クリーニング屋さんの廃業

2008年6月28日

工場には食堂はつきものですが、昔はそれ以外にも付帯設備がたくさんあり、うちの会社も数年前までは浴場がありました。燃料となるものが沢山出る工場だったのでかつてはボイラーがあり、工場の暖房も蒸気だったのですが、ダイオキシン規制でボイラーが使えなくなり、工場の中身も山形に移設したり海外に行ったりで少なくなり、いつしか浴場は廃止されてしまいました。また会社によっては洗濯場があるところもありますが、うちの会社は出入りのクリーニング屋さんがおり、洗濯物かごに入れノートに名前を書いておけば、一週間後に洗濯されて戻ってくるシステムになっています。小生は会社の作業服のうち、半袖のシャツは自宅で洗濯していますが、ズボンと上着は会社でクリーニングに出しています。ところがこのクリーニング屋さんが近く廃業するとのこと、えらいことになりました。確かに昔に比べて従業員も減っているので洗濯物の量も減っていますが、やはり来てくれないと困ります。

作業服のズボンもかつては自宅で洗濯していたのですが、カミさんが干すのが大変だしアイロンも大変だというので、会社のクリーニングに切り替えたものです。山形の工場にいた時は出入りのクリーニング屋さんがなく、単身赴任だったので自分で洗濯していました。乾燥機付きだったので干す手間はありませんでしたが、アイロンは大変でした。特にズボンは力がいり、カミさんの苦労がわかりました。

今回のクリーニング屋さんの廃業は、管理課が代わりの業者を探すと言っていますがこのご時世、そう簡単には見つからないでしょう。そうなったらカミさんにもう一がんばりしてもらうしかありません。

一がんばりと言えば、今日1年ぶりに換気扇(レンジフード)の掃除をしました。掃除をする度に「やはり半年に1回やらないとダメだね」と言ってはいるのですが、11月は遊ぶのに忙しく(^_^;、12月は大抵風邪を引いてまたこの時期になってしまいます。しかしこの掃除も力がいるため、歳を取ったらできないですね。もうしばらくはできそうですが。

2008/06/23

旅行から無事帰ってきました

2008年6月23日

昨日は帰りが遅く、そのまま翌日の会社の支度になだれ込んだため、パソコンはメールを見ただけでした。
今回は前回と同じ富山から高岡でしたが一人旅、かなり鉄分の濃い旅でした。とは言うものの、富山ライトレールに終点まで乗った後は北前船の資料館に行ったり、未だに現役の運河の閘門を見たりしました。高岡では旧回船問屋の望楼に上がり、氷見線では偶然にDE10牽引の貨物列車と入れ替えのスイッチャーを撮り、義経にまつわる史跡「如意の渡し」を渡り、万葉線をフルコース見た後は海王丸まで見、仕上げは国宝瑞龍時でした。天気予報は雨だったのに、なぜか傘は一度も開かずにすみました。いずれまた旅行記にまとめます。P1000499a


鉄系の方に連絡。氷見線の伏木までの貨物列車は、日本製紙(旧十條製紙)伏木工場の閉鎖に伴い、9月末で廃止されるそうです。スイッチャーもおそらくいなくなります。なお氷見線には能町から高岡貨物駅へ分離する貨物専用線があるため、こちらの貨物列車は残ります。

2008/06/22

大収穫!

今日は氷見線貨物に始まり、万葉線と、大収穫でした。鉄以外でも、瑞龍寺の木造でしたが,でしたドームを見るなど、こちらも大収穫でした。今から、帰ります。

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2008/06/21

また、高岡にいます

また、高岡にいます
また高岡に、今度は一人で来ています。もっぱら鉄の旅で、今日は富山ライトレールをまわりました。明日は氷見線と万葉線です。天気予報は雨でしたが,時々日が射す天気でした。

2008/06/15

副都心線開通

2008年6月15日

昨日東京メトロ副都心線が開業しましたが、偶然池袋に行く用事があったため、覗いてみました。渋谷は田園都市線(半蔵門線)のホームから直通の階段ができ、しかもエスカレータが完備しているため、山手線に乗り換えるより楽です。ただ渋谷-池袋間だけを取ると、運賃は地下鉄の方が30円高いです。08061402a_2


渋谷で副都心線のホームに降りてみましたが、物見高い客で満員、電車も混雑のため10分くらい遅れていました。渋谷駅のホームは2面4線構成、ただし4年後の東横線との直通まではホームを繋いで両側の2線だけを使っています。東横線との直通運転が始まると、ラッシュは1面の両側を使った交互発着になるのでしょう。東急では現在田園都市線の鷺沼や溝の口で実施していますし、東海道新幹線の「のぞみ」停車駅ではすべて実施しています。

この両面交互発着、停車時間が運転間隔に近くなる駅では必ず必要で、それができないと列車は遅れます。田園都市線の渋谷駅は乗降客が多い上に乗務員交代があるので、停車時間3分弱は必要です。現在そこに3分間隔で電車が走っていますから、物理的に限界を超えています。田園都市線の渋谷駅こそ4面(最低3面)は必要なのですが、地下が複雑に入り組んでおり、何ともしようがなかったそうです。最初から2階建てにしておけば良かったのですが、駅ができた30年前、まさかここまで列車本数が増えるとは思っても見なかったでしょう。

さて副都心線の方は、8両編成と10両編成が混在しています。これは東横線直通になった時、東横線内の急行/特急は10両編成、各停は8両編成にする計画からだと思います。実施されたら東急とメトロの8両と10両編成、それに西武と東武の各10両編成が入り交じり、順調な時は良いですが、ダイヤが乱れた時の運転指令は大変なことになるでしょう。

話は変わりますが、岩手の地震に「岩手・宮城内陸地震」という名称が付けられたようです。被害に遭われた皆様に、お見舞い申し上げます。震源地がちょうど岩手と宮城の県境あたり、人口密度の低いあたりです。過疎地は情報もすぐには入ってきませんので、これからまだ被害が増える(被害があったことがわかる)でしょう。市場原理に任せた政治を行っていたら、過疎と過密に拍車がかかるばかりで、地域間格差が広がるばかりです。過疎にならないよう、何らかの対策を行うべきです。そのほうが、過疎過密になってから手を打つよりコストはかかりません。

2008/06/11

肩こりはめまいの元

2008年6月11日

ここ数日肩が凝っていると思っていたら、昨晩横になった時に少し天井が回り始めました。このまま放っておくとめまいで3日くらい寝込むことになるので、「やばい!」と思って一旦起き、肩を十分に回して血行をよくし、それからまた寝ました。小生の持病頸椎脳底動脈血流不全はこのところ起きなかったのですが、久しぶりに起きかけました。

それというのも、昨日はチェックサムの検算を電卓でやり(やったことのある方ならわかる、とんでもない作業)、今日はバイナリーデータの羅列のチェックをやっていたからです。エクセルデータのように区切られた、それも十進数ならチェックも楽ですが、バイナリーの羅列はついつい真剣に眺めるため、目から肩こり、ひいてはめまいに繋がってしまいます。小生のめまいは実は目から、それも両目が元気な時から左目が原因なのです。しかしおかげで、0が2つ入力漏れてしているのに気がつきました。会社でも暇を見ては肩を回し、肩こりの防止に努めました。肩こりがひどくなると、もう肩も回せなくなります。

がんばったおかげで今週の予定はほぼ終了、後の2日はペースダウンします。

2008/06/09

大学生協食堂

2008年6月9日

お昼前に、大学の研究室に行ってきました。出身大学ですが、学部も校舎も違います。教授は小生の後輩ですが(^_^;。お昼になり、教授が「お昼にしましょう。」と言いました。どこか外に出かけるのかと思ったら、行き先は学内の生協食堂、そのまま付いていきます。小生がいた頃、学食は業者が入っていましたが、小生のいた工学部だけが生協でした。そして当時は、この生協食堂が一番おいしかったです。

さて今の生協食堂に入ったら、お仕着せの定食ではなく、おかずも豊富、ご飯の量も色々選択でき、小鉢も色々あります。そして値段の安いこと、おろしハンバーグに小鉢と味噌汁、ご飯を付けて、500円を切ります。会社の社内食堂が会社からの補助があって400円ですが、その100円弱の差より遙かに内容に差があります。おまけに食堂が広くて清潔、小生の頃とは雲泥の差でした。今は食堂も立派にしないと、学生が来ないのでしょうね。それに比べるとうちの会社の社内食堂は貧弱ですが、母集団の人員に10倍くらいの差があるので、仕方ないことかもしれません。

2008/06/07

ドレミファインバータの引退

2008年6月7日

最近の電車はもっぱらインバータ制御になっていますが、インバータではパルス状に電流を流して正弦波を作るため、独特の音がします。インバータの出力周波数は0~90Hzくらいですが、パルスの周波数(チョッピング周波数とも言います)は400Hz前後でちょうど人間が聞きやすい高さであるため、特に際だつものです。なおこのインバータ音が聞こえるのは、発車してすぐの加速状態か停車間際の回生制動の時期で、インバータの出力周波数で言うと0~15Hzくらいの間です。この音は騒音なのですが、チョッピング周波数を上げるピッチを音階と同じにして音階を奏でるようにしたのが、ドイツはジーメンス製のインバータを積んだ京急2100系と新1000系の初期型で、ドレミファインバータと言われていました。しかし電子機器は電車の車体より寿命が短く、10年くらいで保守部品が手に入らなくなるため、初期のインバータはどんどん新型に置き換えられています。この2100系の音がやがて聞かれなくなると言う話が、朝日新聞で大きく取り上げられました。

この2100系あたりはGTOを使っていたのですが、最近はIGBTが大容量化して電車にも使えるようになり、このチョッピング周波数を人間の可聴領域(20KHz)より高くして聞こえなくするのが最近の流行です。2100系もインバータを新型に置き換えれば、インバータ音は聞こえなくなるはずです。07080411a


さてこのドレミファインバータ、新聞には音階はファ、ソ、ラ、♭シ、ド、レ、♭ミ、ファ、ソと書いてありました。「固定ドで書くか!」(固定ドと移動ドの話をすると長くなるので、省略)と思ったのですが、ヘ、ト、イ、変ロ、ハ、ニ、変ホ、へ、ト(ドイツ表記にすれば、F,G,A,B,C,D,Es,F,G)移動ド表記でソから始まる変ロ長調の音階ですね。周波数は、
ヘ :349Hz
ト :392Hz
イ :440Hz
変ロ:466Hz
ハ :523Hz
ニ :587Hz
変ホ:622Hz
ヘ :698Hz
ト :784Hz
となっているはずです。なお家庭用のエアコンの室外機でもやはり音階でチョッピング周波数が上がるものがあったようで、暑くなるとどこからかド、ミ、ソ(移動ド表記)で上がるインバータ音が聞こえてきます。

2008/06/03

無駄になった急ぎ足

2008年6月3日

仕事で群馬に行くことが多いのですが工場が高崎の手前にあるため、新幹線の使用は原則として認められていません。しかし在来線で行くと、朝の会議は家を相当早く出なければいけないため、小生はもっぱら自腹で新幹線を使っています。自腹ついでに、新横浜-東京間の東海道新幹線も使っています。

その東海道新幹線、普段は時刻も正確、何事もなく東京に着くのですが、今日は珍しく新横浜を発車しするかしないかのうちに非常停止がかかりました。例の荷物挟まりの非常停止かと思ったのですが、それにしては時間がかかり、バタバタしています。車内放送は「車両の点検」と言うだけで具体的な話は何もなく(言うわけはありませんが)、結局6分遅れで発車しました。

さて困ったことになりました。上越新幹線との東京駅での接続があまり余裕がないのです。朝の時間にそれほど余裕を持っているわけはなく、上越新幹線を1本外せば、会議の開始に間に合いません。「たにがわ」の東京駅の発車は記憶では8時2分で、早くからドアの前に立っていたら、停車寸前に8時の時報が鳴りました。小生は全力疾走をすると命のやりとりになるので、走る寸前ぐらいの急ぎ足で階段に向かいます。修学旅行の生徒をすり抜け、乗換改札口に切符を3枚放り込み、ぱっと見たら発車は8時4分でした。やれやれ。ともかく階段を上がり、弁当売り場のドリップコーヒーを買おうと思いましたが行列なのであきらめて自動販売機にし、乗り込んで一息ついたら発車しました。

小生は階段を上がったり急ぎ足で歩いたりはできるものの、一旦脈拍が上がると1時間くらいは元に戻りません。脈拍が落ちつく頃には、大抵不整脈が出ます。しかし座っているだけなのでそこで呼吸を整え、在来線に乗り換えてまたしばらく座り、会社に着く頃には落ちつきました。

ところが肝心の技術担当重役は体調不良とかで病院に行き、結局午前中は出社せず。技術管理部長も先日の怪我の後処理で病院に行ったままこれも不在。全くどうしようもない上役で、なんのために不整脈覚悟で急ぎ足にしたのかわかりません。今度こんなことがあったら、次の新幹線にしてのんびり来ます。

2008/06/01

親父は電信兵だった?

2008年6月1日

以前書いたことがありますが、先の大戦中、親父は旧制中学出ですが幹部登用試験を受けて将校になり、通信将校をやっていました。ただ戦争中のことは、詳しく聞いたことはありません。断片的に聞いた話は、中国大陸のどこかで胸を狙撃されて負傷したこと、後方の病院に入院中に部隊が全滅したこと、一旦召集解除になり再招集され、再招集後はずっと国内にいたこと、くらいです。ところが実家の片付けで出てきた資料を調べ、さらに「通信隊戦記」(久保村正治著、光人社)という本を読んで、だんだん戦争中の親父の姿が見えてきました。

旧帝国陸軍は、歩兵の他に多くの専門集団を抱えていましたが、その中に電信兵と呼ばれるグループがありました。言わば軍隊の中のNTT、やることは各部隊と司令部との通信で、電線を引いたり、移動に伴いそれを外したり、無線のアンテナを立てたり、そしてそれらを使って電信/電話の通信を行ったりというものでした。この中のエリートは軍通信隊で軍司令部と師団司令部の間の通信を行い、ここの将校は主に高等工業(現在の大学工学部)の出身で、親父がいたのはずっと末端でした。ただ再招集後はこの軍通信隊である電信第2連隊(本拠地広島)にいて教育を担当していたようです。

実家の片付けで出てきた記録と「遙かなるノモンハン」(星亮一著、光人社)を読み比べたところ、親父が従軍していたのは昭和14年の第1次ノモンハン事変で、所属は東支隊だったということがわかりました。東支隊は、1回目の出動は無事に終わって帰還したものの、すぐに第2回目の出動になり、ここで強力なソ連軍に包囲されてほぼ全滅しています。1回目の帰還が5月16日、全滅が5月28日で、親父は入院中に全滅の報を聞いたと言っていましたから、撃たれたのは1回目の出動の時か、あるいは2回目の出動してすぐだったのでしょう。部隊司令部にいる通信将校だったため1番先に狙い撃ちされ、そのために助かったと言っていました。

親父の軍隊時代の写真(中には白馬にまたがったカッコイイ写真もあり)を見て漫然と歩兵だと思っていたのですが、実は敵を銃撃することとは関係ない全くの専門職だったということが、今頃わかりました。子供の頃電信の打鍵器や手回し発電機で遊んでいた記憶がありますが、これは戦争中親父が、後半は教育用に、使っていたものでしょう。なお親父は戦後は実家の酒類卸業を継ぎ、通信の「つ」の字も口にしませんでした。モールスもたぶん知っていたのでしょうが、教わった記憶はありません。

こういうことは全く知らなかった小生は親父とは関係なく電気科に進みましたが、電気機器学を専攻して重電メーカーに進んだ小生を親父はずっと「機械屋」と言っていました。親父は、「電気屋とは通信系(現在の電子情報通信系)なり」と思っていたのかもしれません。この6月10日、親父が生きていれば100回目の誕生日です。

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