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2008/05/25

COBOLは生きていた

2008年5月25日

ドラ息子が、百貨店内の売り場から工場の生産管理に転属になりました。どうやら受発注システムの更新作業を担当させられるようです。話を聞いたら、なんと言語はCOBOL!びっくりしました。ちなみにドラは、コンピュータに関しては素人と言っていいレベルです。

COBOLは1960年代に開発された言語で、小生が大学を出た1970年代はまさに全盛期でした。その当時パソコンというものはまだ存在せず、コンピュータと言ったら完全空調の計算機室の奥まったところに置かれている、IBMシステム360などの大型コンピュータでした。現在ではこれらはメインフレームと呼ばれているようです。COBOLはまさにこのメインフレーム用で、その当時コンピュータを学ぶなら文系はCOBOL、理系はFORTRANでした。小生はFORTRANの方だったので、COBOLは全くさわっていません。

その化石か死語と思っていたCOBOLで、システム開発を今からやるというのです。調べてみたら、従来データとの親和性等があるのかもしれませんが、現在でもCOBOLで新しいシステムが作られているようです。人材募集に「某自動車メーカー生産管理システム更新、COBOL」というのもありました。COBOLしかできなく、パソコンなど全くわからなくて他の仕事ができない「COBOL難民」などと言う言葉もありましたが、COBOLだけでもまだ需要はありそうです。

しかし今新たにCOBOLをやらされる方は、大変です。解説書など売っていないので、古本屋かネットで1970年代に出た本を探すしかありません。その当時はメインフレーム全盛で現在のクライアントサーバシステムなどありませんでした。しかし現在、メインフレーム復権の動きもあるようで、1970年代の本が意外と役に立つかもしれません。

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コメント

凡吉さん こん**わ

うへぇ、COBOLですか!!
入社当初に配属された部署で、ちょこっと教わりました。
その部署の処理システムが、某日本製の汎用機で、制度改正にともなう処理の変更だとか、当時原年度記録しか持っていなくて、過年度記録はマイクロフィルム化していたものを、データにとっておく処理とかがあったのでした。
開発はSEなので、担当は要望していけばいいんですが、いっしょにやっているうちに読めるようになったほうが早いや、ということになって(笑)。
それでも、何ページにもわたるソースを見る気はしませんでしたが。
今じゃ、すっかり忘却のかなたです。

COBOLは、いくつかのバージョンというか、使用機によって方言があるようですね。

それにしても、当時は端末もハードディスクもPCよりはるかに頑丈で、「仕事するぞ」モード満々でした。

南海さん、こんばんは
数年前、友人から聞いた話ですが、COBOL技術者、需要どころか、今でもひくてあまたらしいです。
けっこう使われているようです。
学生時代は小生もFortranでした。
学生時代の環境、回想すると、笑えます。コンピューター室っていうのがあって、冬でも空調が効いていて、部屋じゅうその制御の基板。SW電源が数え切れないくらいあって、専用配電盤まであったから、さぞかし電気量すごいことでしょう。ちんけなモニターがついていて、読み取り機でパンチしたプログラムを読み取ると、いつもErrorで落ち込んだのを思い出しました。

コメントありがとうございます。

>楠さん
そうです。小生も同じ反応でした。小生が入社した時はちょうどPL-1の出始めで、計算+事務処理のシステムはPL-1でやり始めていましたね。COBOLの方言は、今回調べて知りました。まあFORTRANにも方言がありましたから、あるでしょうね。

>ひでほさん
小生は学生時代は計算機室に入れてもらえませんでしたね。依頼書にパンチカードを付けて出すと、翌日に結果がプリントアウトされてくる、というシステムでした。入社してからはIBM-360の方は全く縁がなく、FACOM-230/20という小型の計算機に紙テープでFORTRANを放り込み、技術計算をしていました。モニタなどなく、結果はすべて連続用紙です。

やらされましたねぇ、工学部全員履修科目のFORTRAN。
まだ九州の実家の押入れのどこかにFORTRAN77の教科書がしまってあると思います。
学生時代は、アセンブラとFORTRANでした。
QWERTYキーボードなんて無い時代でしたもんね。プログラムを鉛筆でチェックシート作ってリーダにかけて、パンチカードに打ち出して電算機室の受付棚に持って行って、結果は翌日。エラーの繰り返しでウンザリ...まあ、のんびりした時代でした。
そういや今で言うアスキーアートでリンゴの絵を書くとか演習課題に出ましたよ(笑
社会人になってFORTRANは全く役に立たなかったけど、アセンブラは未だマイコンソフトのデバッグ時に通用します、これはやってて良かったと思います。
紙の鑽孔(さんこう)テープは、会社に入ってからウンザリするほど使いました。
巻き取る時に、よく足に引っ掛かってぶち切ってました。のりと補修テープで繋いで、手動で穴あけ加工。訓練のたまものか当時は、特撮SFみたいに1バイト(1列8個の穴)の値が読み取れましたよ(^^;ゞ
インテルのX86系、モトローラの68kのCPUが出来る前、basic言語も無く、磁気テープも高価で貴重な時代、懐かしい話です。

>digiさん
小生の頃はまだ情報工学科などなかった時代で、FORTRANは必修ではありませんでした。学生時代はさらっと流しただけで、会社に入ってからいやという程やらされました。その時代は、本当に紙テープの穴が読めましたね。キャンセルは8個全部に穴が開くので、テープが切れた時はキャンセルを連打したテープを裏から貼り付けて使っていました。
その頃システム係に配属された同期はアセンブラで組んでいて、小生は「アセンブラって、なあに」と聞いたものです。まさかそれから30年以上経って、アセンブラを組むことになろうとは(^_^;。

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